なぜ、お父さん・お母さんは勉強しなさいと言うのか?
こんにちは。いのです。
今回はタイトルのとおり、もはや口癖と言っても過言ではない「勉強しなさい」というフレーズについての考察です。
私も昔は勉強しなさい!とか、勉強しないとバカになる、大学に行けない、就職できないなど脅迫(笑)、いや、親の温かい支援を受けて育ったような気がします。ですが、残念なことに結果として勉強という行為が大嫌いになってしまう結果になった天の邪鬼な私です。
さて、余談はさておき、そもそもとしてなぜ親は勉強しなさいと言うのでしょうか?
せっかく授業料を払っているから?もったいないから元を取るためでしょうか?そうは考えたくないものですが、おそらく学校教育の背景を考えるとうなずけると思います。
日本に学校教育が生まれた意味
今回は持論と言うよりは、堀江貴文さんの『すべての教育は「洗脳」である』を読んだ感想も踏まえております。
さて、タイトルにある「日本に学校教育が生まれた意味」は何なのでしょうか?それは、産業革命以降、日本政府が規律を忠実に守る労働者を確保する必要があり、その労働者を育成する機関として生まれたのが、学校であるとされています。
こういう書き方をしてしまうと、それは日本が間違っている!とか何とかの意見をいただきそうですが、私は過去のこの施策について反対を述べるつもりはありません。むしろ、必要であったからこそ生まれたものと理解しています。
ですが、その名残は今の学校教育に少なからず影響しているのは間違いないでしょう。
勉強の目的
学校教育が必要とされていた時代、生活水準は低く、満足な教育が受けられない状況であったと言われています。そして、労働生産力として、つまり社会に出て働くためには最低限の教養が必要であるという考えから、学校に通うことが義務付けられたのです。
当時は労働生産力を効率的に確保するという背景から勉強があったということになります。
当時の産業を支えていたのは工業です。つまりライン作業に従事する(もちろんそれだけではないですが)作業者が必要ということですね。そして、工業には独創的な発想や行動は不要で、いかに規律を守って、忠実に仕事をこなすことができるかが評価のポイントだった。
だからこそ、「あれをやりなさい」とか「これをやってはダメだ」という教えがまかり通るという理屈になります。そうです。昔の勉強というのは規律をしっかりと守れることが目的だったということです。
なので、立派な大人になるためには勉強をしないといけない。だからこそ、昔からお父さん、お母さんは「勉強しなさい」と言っていたのです。そして、その教えは世代を超えて受け継がれて現代にまで根付いているというのが私の見解です。
「勉強しなさい」は必要な教え
さて、ここまででなんとなく「勉強しなさい」の背景と、現代には合わなさそうというのが雰囲気分かっていただけたのではないでしょうか?今までどおりの「勉強しなさい」は時代遅れなのです。
しかし、必要な教えでもあると考えています。なので、この「勉強しなさい」というフレーズを令和の時代にアレンジするにはひとこと付け加える必要があると考えています。
「自分に必要なものはなにかを勉強しなさい」
「自分に必要なものを勉強しなさい」
「自分が必要とするときに勉強しなさい」
情報化社会(Society4.0)の時代は、我々にインターネットという技術を提供し、さまざまな情報革命を起こしました。
結果として、それまでと比べて我々が手にすることができる情報量は400倍〜500倍にも膨れ上がったと言われています。
そのためにも自分が何を学ばないといけないのか?何のために学ぶのかをしっかりと整理する必要があります。情報を取捨選択する力が必要ということですね。
とはいえ「勉強する」、「学ぶ」というフレーズを使ってしまうと、なんだか堅苦しい印象が拭えないので、簡単に言うと、「自分の好きを大切にして情報を集めるようにしてみましょう」という感じです。
自分の好きなものが無いと学ぶ意欲が湧きません。そして、学ぶ目的も見いだせません。そして、それはすぐに見つかるものでも無いかもしれません。常にアンテナをはっておかないといざ運命の巡り合わせが目の前に来てもそれを逃してしまうでしょう。
「運命のそれ」を見つけるゲームだと思えば、仮に勉強が退屈だとしても少しは楽しくなるかもしれませんよ(^^)
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