見出し画像

明日死ぬかもしれないから。明日も生きていくから。

中学生のときはCDを買いすぎたし高校生のときは小説を買いすぎた。ここ1年半くらいは可愛いもの集めに躍起になりすぎてお金を使い果たした。可愛いシール、可愛いおもちゃ、可愛い服、とにかく可愛いものをたくさん。可愛いものを持っててもいいんだ、と気付いた途端に、水を得た魚のように動き出した。可愛いものを手にする権利を得たあたしは止まらない。

「可愛いものや珍しいものをたくさん持っていること」がステータスであるかのように錯覚している。インターネットをやっていると、ついそうなる。あたしもこの人みたいに何かのコレクターにならなきゃ、と思わされる。買って買って集めたら、自分のアイデンティティが固まって評価されるような気がしてくる。でもあした家が燃えれば全て水の泡。何も残らない。

物を買えば買うほど、この世界に縛り付けられていくように感じる。
あたしは地震や火事にあったとき、このぬいぐるみたち(20個をゆうに超える)を全員連れて家から逃げ出すことができるかしら。無理ならば、予め優先順位をつけなければいけない。命の選別である。そこから外れた子が悲しい思いをするくらいならば、最初から家に置いて行って、全員一緒に無事でいてくれることを祈る方がマシなのではないかと思う。
そう考えた日もあったけど、それだと「全てを失ったわたし」が最も悲しむから、無理だとしても全員連れて逃げ出すことに決めた。

何かのまちがいでこの部屋が壊れてしまう前に、あたしはたくさんこの部屋で生活したい。
可愛いもの集めに躍起になってお金を使いすぎたことを後悔してたけど、精神状態が悪くて部屋を片付けられないときには、「散らかってるけど可愛いものがたくさんあるな」と思って若干救われた。床に転がってる可愛いものたちを一個ずつ拾い上げて、そのたびに少し元気を取り戻した。

少ない貯金をはたいて欲しいものを買うとき、「まあ、あした死ぬかもしれないんだから。」と思って買う。そして、スーパーでシャンプーの詰め替えやリップクリームを買うとき、「ああ、明日も生きていくんだな。」と思う。
来年もその繰り返しだと思う。今日の自分を最も大事にしたいけど、それと同じくらい、未来の自分も大事にしなくちゃいけなくて難しい。その日暮らしでごめんなさい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?