インターネット爆発後のおれたち

わたしは10代、もっと言えば19歳、永遠に19歳。高校留年したかった、ともかく10代。

インターネットは10代が微塵も若くない。
見渡せば、みんなもう立派なコンテンツになっている。わたしは手遅れの10代。焦る。承認されてないていうか、消費されてないことに焦りはじめる奇妙な10代。

「みんな」もう完成しているのに自分だけ完成していない、という焦りと大きな孤独。10代は若くない。なんて惨めな。

わたしインターネットと体が繋がっている。インターネットでコンテンツを閲覧、インターネットで消費、インターネットで発信。インターネットのためにアルバイトして旅行して日記を書く。

インターネットは海。殴っても叩いても形がかわらない。自分の手だけが痛くなる。どれだけキーボードを叩いてもパソコンを閉じたら何も残らない。こわい。

この先死ぬまで囚われるのかと思うと怖くなった。触っても押し退けても泥のような手ごたえ。物体じゃないから塞げない、体の中に染みついたインターネット。コンテンツとしてのわたし。ハードディスクを叩き割れば消える。

どれだけ紙に日記を書いたとて、映像を遺したとて、着飾って写真を撮ったとて、それがなんだろう。あしたインターネットばくはつしたら、あした家燃えたら、わたしの手元には何も残らなくて、むごい。

田舎に引っ越してなにかの職人になりたいなあ。インターネットを見る暇がないくらい手を動かし続けて現実の物体と向き合いたい。そして、でもきっとSNSに写真を載せるだろう。動画を回すだろう。そうでなくとも紙に日記を書き続けるだろう。その日記を何度も何度も読み返して、自分一人のために自分をコンテンツ化してゆくだろう。

そこから逃げだす勇気がない。わたしがわたしを遺さずに年老いたとき、まったく後悔しないと言いきれない。やめる勇気がない。生活の記録に必死になることで、生み出す・学ぶ・経験する労力から逃避しているのである。

生み出せないから、誰でも持ってるものを必死に遺している。

やめたら、この偽物の充足感をすべて投げ打って、ゼロから自分と向き合うことになる。おれはおれの記録を取り続けることで自分を見つめているのではない。おれには見えていない。本当の自分は生産の過程にあるべきだと思う。と、思わされている。さて誰にか?
正しい生き方などあるわけがないと思っていながらも自分の生き方に不安を抱くのである。

おれは死ぬまでインターネットと切り離せないじぶんの肉体の在り処が怖いのか?

あるいは「インターネット爆発後」に取り柄の無い肉体ひとつで取り残されるのが怖いのか?

いざとなったら回線切ってスマホを窓から投げ捨てろ! その瞬間、アナタの自我はインターネットから切り離され、現実世界の住民となる。毒電波を通してつながっていた関係ややらかしは、すべて向こうの世界の無関係な出来事となります。

僕はにゃるらになってしまった
~病みのインターネット~

きょうは『僕はにゃるらになってしまった』を枕元においてよく眠ればいい。
毒電波はわたしたちの体内にこそある。が、そんなことも忘れて、わたしはこのページ(p.56)を天に掲げて涙した。

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