燃える男の赤いトラクター、あるいはあの子がふっていた真赤なスカーフ。

北方謙三の三国志で呂布が首に巻いてた赤い布が好き。

色には印象や特徴がある。印象には良いも悪いもあるし、特徴には良いも悪いもない。
抹茶色のエナジードリンクは効果を感じない。
青い牛乳は飲みたくない。
赤い扇風機は涼しそうじゃない。
虹色のテレビは番組を見る気が失せる。
形とか音とか、他の外的要因を省いて色だけを見た場合、それぞれに特徴がある。それ自体に何の意図もない。

良くも悪くも単なるイメージ、認識の結果だ。そしてイメージは人によって違う。
茶色を見て連想するものが、土でも髪でも犬でもうんこでもカレーでもコーヒーでもチョコレートでも、その連想結果に良し悪しなんてない。
経験とか気分で変わるだけだ。

「赤は女の子」「青は男の子」「いや、男が赤を好きでもいい」「女が青を好きでもいい」「好きな色を選べばいい」「好きな色を選ぶべきである」
「赤が好きな女は、赤が嫌いな男は、青が好きな男は、青が嫌いな女は、差別社会の犠牲者だ」
めんどくせ。そんなんちゃうわ。大体、赤が好きといったって赤にもいろいろあるし、どういう風に好きなのかも違うし、嫌いなときだってあるわ。
好きだから使うとも限らないし、嫌いだから価値がないと思ってるわけでもない。

【ぼくがかんがえたさいきょうの自由】を強要することを、この世界では平等って言うらしい。

平等の崇拝者さんたちは、個と個の区別ができないことが多い。
「違うのは悪いこと。みんな同じ。平等でなければならない」という妄執。他人は自分ではないのだから、その時点でもう同じではないのに。
好きな色を選ぶ自由をと言いながら、男らしい色を好む男、女らしい色を好む女に罪悪感を植えつけて、みんな同じ色という平等に導こうとする。

偏見や差別をなくしましょう。とよく言うが、それって「価値観を捨てろ、自分を殺せ」とあまり変わらない。
意味もなく何かを貶める必要はないにせよ、心に偏見や差別があることの何が悪いのか。許容や受容は元あった価値観の否定がなければ成立しない。
同じになりたくない、同じになれない、そんなことは許さない。
平等な社会の邪魔をせずに黙って同じ枠組みに入りなさい。
なんと自由なのでしょう。

赤信号が止まれで青信号が進めなのは色差別だから統一しよう。
絶え間ない事故で絶滅したらいいと思う。

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