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はざま

洗練されたものと気取ったもの

’洗練されたもの’は練り上げられ、磨き上げられたもの。

不要なものや不純なものがそぎ落とされて残った姿形の純粋さに

惹きつけられるのかもしれない。


’気取ったもの’は形として体裁は保たれていてもその装いが

なんだかしっくりこない。

自分が気取ってしまった時や気取ったものに出会ったとき、

なんだか気恥ずかしいようなバツが悪いような感じがしたり。


’洗練’はするのではなくて、されていくものだ。

そこには、それなりの思索と試作を重ねていく時間が存在する。

’気取る’はするものだ。

格好をつけようとしたり気取ったりすることも野心的、革新的、実験的という

要素が感じられると悪くなかったりもする。

チャレンジ精神という意味においては。

あと、遊びなら楽しいかも。


人であれば、

その人の世界観のようなものが、話すさま、動くさま、眼差しなど、

立居振る舞いににじみ出てその人の佇まいになる。

ものであれば、

無駄がなく使いやすくて、美しいもの。

使うことがうれしくなるようなもの。


いずれにしても目に映るのは形だけれど

人は見抜くんだなあ。

洗練されたものに、人は寄っていく。

気取ったものには寄りつかなくなっていく。

どきっ。


日常でももの作りでも何かを表現するとき

洗練と気取りのはざまは微妙だ。

気取りは気負いにも似て。

いいものを表現したい気持ちはあっても、こうしたい、こうしようと自分の欲望の部分が大きくなってしまうといつの間にか気取ったものになってしまう。

表現することに真摯に向き合い続けていくうちにだんだん自分がいなくなっていく

時のような感じがいいのかもしれない。


その狭間をゆらゆらしながらやり続けるしかないかな。

日常と表現と想像と創造。

誰もが表現している。

誰かの表現に触れている。


あなたはどんなものに触れたい?

どんな表現がしたい?

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