見出し画像

行政に隷従する現場の声を拾いあげるために

行政は現場を埒外に置く

 緊急事態宣言が全面解除となり、世間に活気が戻り始めましたが、今回のコロナ対応によって、改めて行政サイドの人間には現場の感覚が欠乏していることを痛感しました。
 いえ、正確に言うなら、現場感覚の「欠乏」ではありません。「欠乏」というのは「不足している」ということです。しかし、「不足」という言葉には、その不足を補う余地が存在することを信じる気持ちが含意されています。「あなたには〇〇が不足している」と言う場合、その相手の内に〇〇を補う余地があると「期待している」ということの裏返しでもあるのです。
 しかし、今回改めて判明したことは、そのような期待はしてはいけないということです。なぜなら、行政サイドは政策を実現するためには現場の人間を「存在しない」ものとして埒外に置くしかないと考えているからです。

一つ事例を挙げると、次のようなニュースです。

 学校給食を6月1日から開始するということを公表したわけですが、ニュースに寄せられたコメントを見てもらえればわかるように、おそらく現場サイドにいる方々から様々な批判の声が届いています。

現場の人間は「少数派」

 先に、行政は現場の存在を考慮に入れない、と述べました。それは単純に、現場の人間は「少数派」であるからです。
 行政サイドの人間において「現場」に存在するのは「有権者」(顧客)のみです。もちろん現場のスタッフも有権者です。しかし、スタッフの数というのはその自治体における「有権者」の総数に占める割合としては、さして重要な数ではありません。たとえば、500人の生徒が在籍している規模の学校を例に挙げると、二親が揃っている場合、兄弟関係を考慮せずに単純に計算すると1,000人の有権者が存在します。それを一つの都道府県レベルの自治体規模で考えると、学校というプラットフォームに利害関係を有する有権者人口というのは膨大な数に上るわけです。それに比べれば、現場サイドの人間は少数でしょう。
 民主主義国家の政治的原理は、ベンサムの「最大多数の最大幸福」という理念が教えるように「最大公約数の幸せを目指す」というものです。つまり、極端な話、民主主義では「少数派」は排除される(存在しないものとみ見なされる)運命にあるのです。

変わる「少数派」の定義~数の論理から声の論理へ~

 ただし、ソーシャルメディアの発達によって、「少数派」というのは単純に数の論理では説明できなくなってきています。数の論理に替わって台頭してきているのは、声の論理です。つまり、「多数派」というのは「発信力の強い」派であり、「少数派」というのは、「発信力の弱い」派であるということです。
 発信力というのは、具体的に言えばソーシャルメディアを使いこなす能力です。たとえば待機児童問題を社会問題として顕在化させたのは、「日本死ね」という一市民のセンセーショナルな発信であり、それを取り上げたメディアです。しかし、2018年の東京都の数字で見ると、何らかの保育サービスを利用している児童は約30万人で、待機児童は約5,500人程度。こんなことを言うと批判をもらうかもしれませんが、「たったの」5,500人なのです。保育サービス利用者との比率でいうと、わずか1.8%。同じ2018年の東京都の就学前児童人口64万1,920人との比率でいうと、0.9%でしかありません。つまり、従来の数の論理でいうならば、1%にも満たない倒的少数派です。この少数派があたかも多数派のような顔をして大手を振って現在も政治を先導することができるのは、まさにソーシャルメディアの力がなせる業なのです。あるいは、今般の9月入学論が政治上の議論の遡上に載り社会を混乱させているのも同様の論理です。

 以下は、ソーシャルメディアがもつ集団凝集性の高さが政治を動かしたことに対する「ひろゆき」氏の発言ですが、まさにこういう事例が現代的現象なのです。

数の上での少数派・声の上での弱者

 以上を踏まえてみると、現場が無視されるのは、まさにこの両面において非力だからです。数の上での少数派であること、そして声の上での弱者であることが、現場を無視する政治的風土を作ってきたのです。
 政治的行為が法律によって広汎に制限されている公務員は、立場上、「公」にセンセーショナルな発信がしづらい。そこで何が起こるかというと、現場無視なわけです。
 先に示した、大阪市が学校給食を6月1日から開始するという報道の一番の問題点は、現場に対して「事前通告」せずに、先にメディアを通じて発表をしたという点です。
 基本的にどこの自治体にも共通することですが、行政サイドはこれから打つ施策を、現場に対して「事前通告」しません。ホームページやマスコミなど何らかのメディアを通して先に発表して、既成事実を作る。そしてその既成事実を後追いの形で現場が実行に移していくというのが、慣例的に行われている行政的スタイルなのです。

行政が現場を無視するもう一つの理由

 このように行政が現場を無視するのには、現場が少数派・弱者であるということだけが理由ではありません。現場は行政の施策に必ず反発することを知っているからです。
 そもそも現場が諸手を挙げて歓迎する施策などというものは存在しないのが現実です。なぜなら、行政サイドの打ち出す施策というのは、基本的に「〇〇をします」という発想の提示どまりでしかないからです。しかし、現場というのは、まずオペレーションレベルで生じる「実務」を様々な角度から考量します。すると、どうしても実行上の「不都合」や「困難」ということにまで視点がいきます。
 戦略というのは本来そうあるべきです。想定されうるあらゆる不都合や困難を先に洗い出し、それらを考量した上でベターな選択を導き出す。それが戦略です。
 しかし、残念ながら、行政サイドはその知的作業をきちんと積み上げたうえで施策を提示するのではなく、スピードを重視するために「大枠」だけ考えて現場に放り投げる。そして細部は実際にその施策を運用する現場が慌てて詰める。拙速の「拙」の部分を現場が修正するわけです。

 こういうやり方に苦労させられてきた現場としては、行政の打ち出す施策に対する警戒心というものを経験的にもっているのです。

声を上げることでしか変わらない

 ソーシャルメディアの普及によって、誰もが発信者としてメッセージを世に発することができるようになりました。
 このことは功罪両面を併せ持ちますが、ソーシャルメディアのもつ集団凝集性というのは世の中を動かす可能性も秘めています。それぞれの個人が発信者となって社会につながることができるようになったことで、個人がもつ可能性が広がってきたと感じています。
 行動しなければ何も変わらないのだから、まずは自分の考えたことについて、小さいながらも声を上げていくことが大切だと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?