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#スポーツがくれたもの 「誰かのためなら」

ソフトテニス(軟式庭球・軟式テニス)です

今、61歳です
13歳から38歳まで選手として「25年」
40歳から49歳は中学校部活の外部指導者として「9年」
これは、自分自身の中での区切りですが、実際はもっと長い期間となります

数え切れない程の「思い」は、ありますが・・

大学時代のお話を・・

私は「テニス指導」を受けずに高校まで部活動として取り組んできました
インターハイ出場も叶いませんでしたが

「きちんとしたテニスをしたい」

そんな淡い?甘い?を期待を持って体育会に入部しました
一昨年「創部100周年」を迎えた伝統ある部でした

当時はセレクションがない大学でしたので、上手な選手から初心者まで
技術的には、とても幅広い集団でした
ただ「厳しかった」
高校まで自己流で「お山の大将」だった私には厳しかった

当時の体育会は、独特の雰囲気としきたりで運営されていました
挨拶、練習の準備、練習中の動き、終了後・・
大会では「部旗」の管理・・部旗には畳み方にもルールがありました
先輩から買い出し指示で何キロも離れた所まで飲み物を買いに行く・・

1回生は2回生から指導される
2回生は3回生から指導される
1回生は「奴隷」とまでは行きませんが・・
練習での緊張感は半端なかったです
当然、激しく叱られ、時は鉄拳もあり・・
リーグ戦では応援の声出し・・

成績はダメダメで・・

最高学年(幹部)となる時は、長い歴史(伝統)の中でも最低の成績でした
リーグ戦では負け続け、下部リーグとの入替戦にも負け続け・・
部の雰囲気は最悪、幹部同士の雰囲気もボロボロでした

私達の代は7人いました
ご兄弟が全日本で3位となったような有名選手もいました
(ラケットに「日の丸」のプリントもあり驚きました)

Tという同級生がいました

小柄でしたが、とても真面目な人間でした
いつもダッシュ、声出しでは血管が浮き出るくらい・・
そして「叱られ役」でした
叱られ方が良いので「全体責任」で先輩から標的にされていました
私達はそんなTを凄いなあ・・と思いつつも、立ち位置を決めていました

Tは幹部になった時に「主務」という役職につきました
当時は選手としてでなく「会計・手配・手続き」といった裏方の役割でした
OB回りという仕事があり、OBに部への寄付をお願いする仕事もありました
最弱の私達のために随分と苦労していたようです

Tは選手として出場する訳でなく、いつも応援してくれました
私達が負け続けても、いつも励ましてくれました
一番辛い思いをしているのに・・一言も言わずに励ましてくれました
そんな事も知らずに、最後のインカレを迎えようとしていました

定期戦で・・

最後のインカレ前にK大学との「定期戦」がありました
(Tは出場していなかったと思います)

K大学との立場も私達が1回生の時とは逆転していました
予想された事とは言え「負け」が見えていました
が、あるペアの大活躍のお陰で勝利する事ができました

私は負け慣れてしまっていて・・
定期戦に勝利したと言っても、自分は負けていたし・・
「勝てたんやなあ・・」とボンヤリとした思いでした

団体戦は試合前と後にネットを挟んで、両校が整列して挨拶をします
この時も挨拶するためにベースライン上に整列して
副将だった私と主将だったS、そしてTとネットに歩き出した時です
ちらっと左横を見ました

Tが泣いていました
声を出して泣きながら、ネットに歩いていました
恥ずかしながら、本当に恥ずかしながら驚きました

Tが泣いているのを初めて見ました
いつも励ましてくれて、良い所を教えてくれて・・
いつも大きな声を出し、下級生の時はいつも叱られ役になってくれていたTが
自分は出場していないのに・・

勝利に涙していました

それに気づいたSも泣いていました
私も・・泣きました

「なぜ、Tの思いに気づかなかったんだろう」
「なんて、俺は思い上がっていたんだろ」

自分が恥ずかしくて、情けなくて・・
その場から一刻も早く逃げ出したくて・・
祝勝会にも出ずに周りが引き止めるのも聞かず・・
一人で電車に乗って、下宿まで帰りました

『自分のためでなく、誰かのためなら頑張れる』

コーチをしていた時に、繰り返し生徒に話した言葉でした

自分が出来なかったことを、生徒には強いる事になりますが

できる人には、わかる人には「力にしてもらいたい」

私の一番の「スポーツ(テニス)がくれたもの」です

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