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【いまはもうなき旅の記録】 4. サムイ島行きバスの不思議な夜

2017年8月6日(月)
早朝パタヤ発のバスに乗った僕は、昼過ぎにはバンコク旧南バスターミナルに着いていた。このターミナルから出るバスが、プーケットなどの南部方面とカンチャナブリーなど西部方面行きになっている。
僕が次の目的地に選んだのは南部の「サムイ島」だった。
通常の旅行者であればサムイ島へは飛行機サクッと1時間で行くはずだが、貧しいバックパッカーにはその金が惜しく、深夜バスで15時間かけて行く方法をとる。でもその方が圧倒的に楽しそうだ。

普通の車で11時間。ボロバス、深夜、途中停車、フェリー乗船を加えて15時間以上。
少しは綺麗になっていた2017年の新南バスターミナル。

サムイ島行きの深夜バスが来るのは16時頃、あと4時間。周辺には観光スポットやショッピングモールのような時間を潰せる場所は何もない。砂埃が舞いこむボロいバスターミナルでじっと待つことにした。ペアルックのバックパッカーカップルと苦味の混じった微笑みを交換する。でも、彼らの目的地は別のようだ。早々にバスへ乗り込んでいった。さよなら。

じつに長い待ち時間だった。とはいえ苦痛ではなかった。これまでの数日間のカオスを一旦整理するにはちょうど良く、ぽかんとした時間。Tシャツの隙間に爽やかな風が入ってきた。
結局バスの出発はなぜかどんどん遅れ、乗り込めたのは18時頃だった。
しかしまさか、このバスに乗ることが運命的であろうとは。

車内はこんな感じ。これは2017年のカンチャナブリ行きのバスだが。

狭いバス車内、決して綺麗とは言えない。この中で15時間も耐えられるんだろうか。座席に着いた僕をまず空腹が襲った。昼から何も食べていない。節約したさもあるが、まずターミナルに食事できる場所がなかったからだ。
腹が耐えきれず、ぐぅと音をあげた。
すると、誰かが肩を叩き、視界にチョコレートバーが差し出されていた。
隣を見ると、若い女の子の笑顔があった。

女の子は自分と同じか少し下の年頃に見える。小麦より少し黒めの肌、目鼻立ちははっきりしていて、そうだな、どこかデビュー前のローラに似ている(わかりづらい)。そして、彼女はこちらにチョコレートバーを差し出している。

『列車やバスで知らない人がなれなれしく、タバコ、飲み物、菓子をすすめてきたら注意しよう。薬を混入させた食品を使うのはおなじみの盗みの手口だ』

とガイドブックに注意書きされているのを思い出したのは、チョコレートをむさぼり喰った後だった。
僕は満面の笑みで「コップンカップ」と女の子に伝えた。彼女もキュウリのスティックをかじりながら微笑んでいた。

郊外の荒れ道をバスが上下に揺れながら走っていく。もう夕陽が沈みかけている。西日が差し込み、乗客がみな影になる。タイミュージックが流れていた、ような気がする。
僕は隣を気にする。窓外を眺めていた女の子が、僕の気配に気づき、微笑んでくれる。そうだ、ここは"微笑みの国 タイ"だった。だから彼女は微笑んでいるんだ、それだけだ、きっと。
逆光を浴びた彼女の輪郭線がくっきりと浮かんでいた。

「Japanese?」
彼女は英語が話せるようだ。
「Yes, my name is Issei. What is your name?」
「Noo(ノオ)」
「No?」
彼女は僕の手を取り、手の平に「N O O」と指で文字を書いた。
突然の接触による緊張で僕の手は汗ばんだ。
たどたどしい英単語の往復で、彼女が【ノオ・23歳の大学生】であることまでがわかった。

陽が落ちて夜になった。暗い車内へ、郊外の道のまばらな電灯の光が断続的にインサートしてくる。タイミュージックは消え、乗客はみな眠っているのか、静かだ。
ただ僕は寝つけずにいた。このバスは本当にサムイ島へ向かっているのか。この旅はどうなるのか。お金は足りるのか。日本に、帰りたい…。
そんな時、かすかに歌声が聴こえてきた。隣でノオが歌っている。タイ語のゆるやかなバラード曲。車内に彼女の心地いい歌声が流れる。
すごいなと思った。
この状況で気兼ねなく歌える少女の度胸と、それに対し気に止めない他の乗客。おそらくこの地では何ら不思議じゃない状況なのだろう。しかし僕は、闇夜をひた走るバスと共にフィクションの異界へ迷い込んだ気分になった。

ここから記憶は曖昧になる。ノオは【シンガーを目指している】という。どうりで歌うわけだ。「好きな歌を教えてください」と聞かれた僕は、Des'reeの「You Gotta Be」を携帯電話から片耳ずつのイヤホンを通して一緒に聴いた。たしか、その時すでに僕らは手をつないでいた。

まどろみながら、僕らは肩を寄せ合っていた。
夜空高くに上がった月の明かりが僕らをぼんやりと包む。
まだ旅を始まったばかりだったのに、もう終わって現世に戻れるかのような安心を感じた。互いの手の湿りに慣れた頃、僕は深い眠りについていた。

突然、つないでいた手が離れて、目が覚めた。
立ち上がった彼女がこちらを見ていたが、暗くて顔がはっきり見えない。ただ一言、微笑みながら
「See you…」

彼女の細い身体は僕の前をかろやかに通り抜け、バスを降りていった。
僕は慌てて窓外に目をやった。
そこは途中下車のバス停だった。深夜の暗闇の奥へ、彼女の姿は消えていった。何が起きているのか寝ぼけた頭では理解しきれていなかったが、ふたたびバスが走り出した後、すぐに涙がでた。

そんな夢とも現実ともつかない一夜があった。
孤独感にさいなまれた末の妄想かもしれない。さてはチョコレートバーに幻覚剤が仕込まれていたのかもしれない。実際のところ彼女は日本人旅行者に手を握られて恐怖を感じていたかもしれない。
すべてが僕の中では現実であると仮定して…
言葉のわからない異国で、偶然出会った見ず知らずの他人と、刹那的にでも心が深く通じ合うというのは、なんとも奇妙で不可思議、そして愛しい体験だった。
そんな出来事が予定もなく起きてしまうのが、本来の「旅」であり「人生」のはずだ。この夜の微笑みをずっと忘れることはない。

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