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湖畔の天幕生活 (五)

湖畔の天幕生活テントせいくわつ (五)


    八

 午過、私達は老人のすゝめで舟

にのり、湖心から西よりの辨天島

へ行つてみることにした。往復一

里はあるだらう。ろは三人で交る

交る押した。産生ケ崎を出ると、

心細いほど物凄い湖水のまん中へ

でる。はるか右手に、老人の云ふ

通り、白瀧が細糸のやうにみ江る。

その上が、三ツ峠といふ、この頃

名高くなつた風景のいゝ所ださう

である。河口村、長濱村の人家が

かすかにみ江る。そして程なく私

達は辨天島――又は鵜ケ嶋とも云

ふが――の岸へついた。舟を繋い

でおいて上つてみる。つまらない

島である。そこに祀つてある辨天

社の前の標木には、たしか海抜四

千五百幾尺とかいふ字がよまれた

 岸へ戻つてみると、網を曳いて

ゐる。曳き上げてみると獲物は數

へるほどしかゐない。

「わし達は金だけ貰へばそれでい

 ゝといふわけぢやない。全くこ

 れだけぢや曳いた甲斐もない」

「全くだ。あんまりひどい。一体

 今日はどうしたわけだらう。氣

 の毒だな」

 漁師は金を出した人に氣の毒さ

うにこんなことを話合つてゐる。

金を出して網をうたせた人は、默

つてたゞ笑つてゐる。私はこの有

樣をみて、へんに感じた。何んと

いふことなしにではあるが。

    九

 夕方、ひどく空が暗くなつてき

た。「これや、ひとふりくるぞ」こ

う老人が云ふうちにも、はげしい

夕立がやつてきてしまつた。ひど

い雷雨である。頭のま上で鳴りは

ためくのだから堪らない。私は縮

み上つてしまつた。閃光がひらめ

くたびに山の黑い姿を、光のあた

るところだけみせる。ところへ、慌

たゞしい靴音と劍の音がしてこの

家へ白服を着けた人がとびこんで

きた。みればそれは巡査である。

よほど心細さうな顔をしてゐる。

こゝの老人とは相識の間柄とみ江

て、座敷へ上りこんで濡れそぼつ

た上衣をとり、シャツ一枚になつ

て、わたし達にもあいさつした。

「たゞの夜だつて明り一つない道

 を歩るくのは心細いのに、こん

 な晩は、とても歩るいて居れん。

 わしは雷嫌ひだから」

 この人も雷嫌ひなのだ。雷嫌ひ

の私はだれよりも彼の心細さに同

情してゐたにちがひない。あまり

雷雨が長いので、流石の私も巡査

も、すこしなれてきた。彼は老人達

と世間話などをするし、私も皆と

トランプをやりだした。

「ついこの間、わしは、富士の五合

 目の派出所の裏で熊をみたが」

「へ江、今頃は人でうづまるほど

 山は賑かなのに、熊が出ました

 かね」

「餌をさがしにきたのでせう。あ

 そこには墓かなんかあるから。

 わしは後からみたのだからよか

 つたが、去年の秋の人のやうな

 目にあつてはたまりませんな」

「誰れかやられたのですか」

「吉田の町の人です。なんでもそ

 の人は道端に坐つて握飯を食つ

 てゐたさうです。うしろでガサ

 とへんな音がするので、ふいと

 ふりむくと、熊だつたさうです。

 びつくりして立上ると、熊もお

 どろいたのでせう、夢中で前足

 をふりまはして、とう/\、その

 人の顔の半分を、ひつちぎつて

 しまつたのです」

 この話が終るか終らないうちに

地の割れるやうな大きな音がした

その瞬間に船津の町の明りは、そ

ろつて消江てしまつた。いよ/\

まつ暗だ。「發電所がやられたな」

と老人が云つた。しかし間もなく

明りが點いた頃には、さしものひ

どい雷雨もどこかへ去つてしまつ

てゐた。うそのやうに空が晴れて

くる。「夕立のあとは山がよく見江

ますよ」と老人が云ふ。なるほど、

さわやかな夜となつた。私は今の

さきまでの、なんとも云へない苦

しい氣持から放たれたのである。

巡査はあたふたと仕度をして、わ

たし達にも老人にも別れて行つた

 もう月がのぼつてくる時刻であ

る。これでまた、昨夜におとらない

美しい夜がたのしめるといふもの

だ――わたし達はトランプを切り

上げて、ひる間買つて置いた、ビ

ールをぶらさげながら、山の天幕

へのぼつていつた。今夜はひさし

ぶりに、月明の夜空の下で、心ゆ

くばかり、唄でもうたつてみたい

やうな氣持になりながら。

     ――十二年八月稿――


(越後タイムス 大正十二年十月七日 
      第六百十九號 七面より)




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