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靑葉の頃に (上)

◇ぴち/\と音だてゝはねつかへ

りさうな白いはつ夏の太陽の光が

もうすつかり靑葉となりかはつた

櫻並木の路を散歩する私に、息ぐ

るしさを感じさせる五月がやつて

きた。神經衰弱病者の私でさへ、

ゆら/\と畑の黑土からのぼる陽

炎をみつめたり、淫賣婦の唇を思

はせる菜の花のきら/\するいろ

をみたりするとおさへやうもない

情感がみなぎつて來るのを覺江る

◇はつ夏といふ自然のもつ、明る

さ、快さ、生々しさが私の弱々し

く疲れてゐる精神を、銳いむちで

ぴし/\とうちはげましてくれる

――そんなとき私は、かすかなが

ら生のよろこびといふやうな昂奮

を感じずにはゐられない。なにを

讀んでも、みても强い刺撃をうけ

る。つきることのない空想にふけ

るのに、いちばんふさはしいとき

もこの若葉の頃であらう。

    □

◇私だちの生活はいつも私だち以

外の多くの生活の反影をうけて動

いてゐる。それゆゑに私だちの生

活はだん/\と深く、こみいつて

くる、もつれてくるのである。自

分の持つてゐる個性的な生活に滿

足しきれないで、何かしら、もつ

と新らしい、もつと深い淵へ流れ

てゆかうとあせつてゐる。美しい、

幸福なものをめがけて生きてゐる

◇私はそんな意味での私だちの生

活にいろんな影を投げかけるもの

ゝうちで、いちばん藝術を貴いと

思ふ。この意味でだけ私は藝術に

憧れたい、藝術を愛したい、藝術

といつしょに生きてゆきたい。こ

れは、すくなくとも創造されたる

ものに對するいちばん純眞な態度

であると私は信じる。その藝術の

なかでも劇藝術ほど私達の生活に

近いものはあるまい。若しも私達

が私達の生活を眞劍に考へてゆく

者であれば、私達は決して劇藝術

に無關心でゐられない筈である。

◇それだのに今の劇はどうだらう

!資本主義制度に縛られてゐる私

だち自身が商品化されてゐると同

じやうに演劇も全くあのデブ/\

と肥江た興行師共の美衣美食の糧

となつてゐる。舞臺に立つ藝術家

は私達と遠くかけ離れた別な世界

に生活してゐる。劇塲は商人共の

營業政策に利用され、宴會の餘興

に使はれ、ブルジョワ共の虚栄心

滿足の犠牲になつてゐる。

◇劇塲はこんな風で、人間の生活

に指導と反省との豊潤な投影を與

へるといふ目的を全くふみにじら

れてしまつて、今はまさに頽廢と

糜爛との極に立つてゐる。私が今

度新らしく組織された先驅座とい

ふ純粹の小劇塲へ會員として加は

つたのは、決して好奇心からでは

なく、こうした現代の劇塲に反抗

する私自身の生活改革の第一歩を

踏み出さうとしたからである。

◇その試演のある夜私は麹町の土

藏劇塲へ行つてみた。それは相馬

といふ人の邸宅で、日本造りと洋

風建築とのいり交つた、ちょつと

大きな家だつた。玄關をすぎると

裏庭に面した女中部屋のやうな一

室が休憩室になつてゐる。私の行

つたときは時間が早かつたので未

だ六七人の人々がそこで茶を喫ん

だり、煙草を吸つたりしてゐるだ

けだつた。

◇やがて私達は觀客席へ導かれた

暗い、ひいやりする廊下をつたつ

て、階段をのぼると、そこは土藏

に二階を舞臺と觀客席とにつくつ

た十五六畳しける位の大きさの、

文字通りに土藏劇塲の全部である

鐵ボールトのはめてある土藏特有

の窓と、どつしりした感じを持つ

白壁とは、先づ私達に落着いた印

象をあたへる。

◇舞臺は觀客席にしいてある畳か

ら五寸程高いだけだ。かどを削つ

た矩形の額橡の中に入れて、舞臺

になつてゐる洞穴をかこむ壁だけ

は赤味がかつた、ちょこれ江と色

が塗つてある。觀客席の中央に一

つの素朴なシャンデリアが吊る下

がつてゐる。紫色の綾絹の幕には

PINIROと書いてある。これら

のほかには何んの飾りもない、せ

い/″\五十人位しか座れない土藏

劇塲は私のすぐ親しんでゆけるも

のだつた。

◇今まで自分だちの日常の生活か

ら全くかけはなれた、絢爛な、華

麗な、大劇塲の黃金美にばかりな

じんできた私にとつて、私の生活

雰圍氣にかなり近いものであるそ

の一室はどんなに快い印象をめぐ

んでくれたことだつたらう。舞臺

監督の秋田雨雀氏などは額に汗ば

みながら、私達の座席の世話まで

する――金を出してみるとか、み

せるとかいふ意識のすこしもない

氣持よさは誰れにだつてうれしい

ことに相違あるまい。二つの窓に

ちかく木の葉のすれ合ふ音がする

――もしも月の明るい晩だつたら

森と靜まつた觀客席の窓よりの人

々は靑白い光を背に浴びながら、

舞臺にみとれてゐることであらう


(越後タイムス 大正十二年四月廿九日 
      第五百九十五號 二面より)




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