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思 ひ 出 (二)

     第 三 章

 ほんたうの思ひ出といふものは

桃いろなものだ。君のやうなのは

思ひ出でも何んでもない。それは

人生の黄昏の痴愚なのだ。砂糖漬

にしたくるみの味ひが、接吻の味

ひにそつくりだといふことだが、

ひとつそれを書いてみたらどうだ

 私にもさういふ思ひ出はあるの

だ。人生に幸福といふものが若し

あるならば、それは昔の桃いろの

思ひ出にふけることだ。接吻の甘

味に似てゐるといふ思ひ出にふけ

ることだ。

 さあその思ひ出といつてみたと

ころが、私はまだ漸つと廿五歳に

なつたばかりだ。その私に思ひ出

を書けといつたつて、それは夢の

やうな淡い人生の陽炎を、ゆらゆ

らとたちのぼらせてみるだけのこ

とだ。

 私の少年の日の夢すがたと、か

ぎりなき空想と、殉情にあふれた

斷片とを、花びらのやうにひとつ

一つ拾ひあげて、さて私の手のひ

らを眺めると、今の私の筋ばつた

汚れはてた手のはらにあるものは

不思議にも奇麗な桃いろをした櫻

貝のかけらであつた。そこで、その

貝のかけらをひとつ氣まぐれにつ

まみあげ乍ら、私は人なみに桃い

ろの思ひ出にふけつてゐるのだ。

    第 四 章

 ひと昔前の話だ。私の少年の頃

は友達とつれ立つてよく遠足をや

つたものだ。春とか秋とかの愉快

な季節の日曜日であつた。

 春―といつても北國ほつこくの春は五月

であつた。街の凍てついた路の雪

が日ごとにとけはじめると、それ

は温かく泥にまじつて流れた。陽

春のひかりはそれらの泥路の上に

皺をつくつて、白じろとかゞやい

たが、やがて雪もことごとくとか

され蒸發してしまふと、街にはな

やましいはるの風が吹いて土ほこり

をあげるのだ。

 その頃になると私だちは街から

二里ほど遠い湯の川温泉といふと

ころへでかけた。温泉の街をなに

かしら淡い憧れの氣持のうちにと

ほりぬけて、河べりづたひに山の

方へ歩いた。その山すその曠野に

はいちめんに鈴蘭の花が咲いてゐ

た。白い小さなつりがねのかたち

をしたその花からは、息づまるほ

ど濃い匂ひがたちのぼつてゐた。

私がはじめて戀の匂ひをかぎ覺江

たのはその野邊の鈴蘭の匂ひのみ

ちたなかであつた。露深い鈴蘭の

葉の上にまろびねて、春らしい空

を氣まぐれな雲が走つてゆくのを

ぼんやりとみつめてゐると、私は

何ゆ江か人懐しい心持を覺江たも

のだ。それは戀ごころといふには

あまりにつかみどころのないもの

であつた。それはたゞ懐しいふく

よかな匂にあこがれる少年の淡

い心持であつたのだ。

 雲ふたつ合はむとしてはまた遠

く別れて消江ぬ春の靑ぞら――と

いふ牧水の歌を口ずさんだのもそ

の頃だ。摘草のにほひのこれる指

さきを洗ひて居れば野に月の出づ

――こういふ歌のもつ情景は私だ

ちの眼の前のものにそつくりであ

つた。

 鈴蘭の花咲きこぼれる春のひろ

野の夕がすみのひと隅から五月の

夜の月がのぼつてくるのだ。その

仄かな月かげをいちめんにあびた

花畑の、しつとりとした草露を快

くさへ覺江ながら、或は芽だちの

あさい植物の生なまとした、靑く

さい匂ひに交つて燃江上る若き心

臓をおさへつけるほど銳い春萌江

の土のにほひを、胸いつぱいに吸

ひ貪り乍ら、この北方の長いなが

い冬のすべなく退屈な生活のひと

日、憂愁にとざされたひと夜に、

戀のいろさへ褪せ果てゝ萎んだ心

をじつと偲んできた若者らは、待

遠しかつた春のひかりを浴びた歡

びを語り、心ゆくばかり幻の翼を

ひろげつゝ日の暮れをも忘れ果て

ゝゐるのだ。明るい春の陽光に思

ふぞんぶんにひたつた彼らのからだ

は、もう憂いほど血しほがふくら

みつきて、今はむしろ氣倦るさう

に思ひおもひの草原にはら這つて

ほのぼのとした氣持にとろけはて

ゝさへゐるのだ。まことに北國の

冬にこもつた若者らの戀ごころは

こうして美しい春の風景のなかを

あくこともなくおどりつゞけるの

である。樹木にとつても、草花に

とつても、或はこの冬のながい國

に住む若者達ににとつても、悉く春

はよろこびの頂上であつたのだ。

春を待つたのしさ―それ故になが

い暗鬱な冬の暮らしがしのばれる

のだ。はりつめた氷のそこをわづ

かに音たてゝ流れてゐた河は、日

ごとに黝づんでもはやあふれるば

かりの濁流であつた。

 昔は私もさういふ春に育つたひ

とりであつたのだ。


(越後タイムス 大正十四年三月廿九日 
      第六百九十五號 八面より)


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