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春 の 午 後

 長閑な或る春の午後である。私

はうら/\とした氣持で、その椽

端に坐つてゐる。私の友達のAの

宿である。街はづれで、前には廣

々とした戶山ヶ原をのぞんでゐる

私の坐つてゐる椽には、今、ほか

/\と春の午後の日光が降り注い

でゐる。氣持のいゝ、呑氣な日向

で私は、睡氣を感じた。時々、兵

隊の群が靴音高く通る。砲車の轍

がカラ/\と空に響く。妙に統一

のある騒音である。馬の鼻息まで

蒸し暖かさうで春の感じを深めて

ゐる。

 その家はN氏夫人の寓居である

Aはその離れ座敷を借りて大學へ

通つてゐたのである。私はN氏夫

人を戀した。Aも戀した。どつち

がさきに戀したのか私は知らない

がそんなことはどうでもいゝ。私

は斷られたし、AとN氏夫人は、

今では完全に夫婦生活を送つてゐ

る。或る晩、Aは私に、彼と女と

のことを泣いて打明けた。――君

の心持も知つてゐる。君とは親友

であるのに、こんな風になつた運

命が怖しい。僕はもうあのひとと

深いところまで進んでしまつた。

この上はひたすらに君の許しを乞

ふよりほかない。Aは私にこう云

つた。私も泣いた。

 事實を知つてからの私には、女

が私への義理で、Aとのことは一

切、私に感ずかれまいと注意深く

私と應對するさまが、ひがみでな

く、はつきり感じられ、私は女の

その心持をいぢらしく思ふやうに

なつた。であるから私も、私に向

つてそんな苦しい心づかひをする

二人への義理で、月に一ぺんか、

二へん位づゝ、彼らの家を何氣な

い氣持をことさら見せて訪問する

のである。情ない立塲の私である。

 その午後も私は一月ぶりで訪ね

たのである・・・ ・・


 女には、N氏との間に六歳にな

る男の子が一人だけである。この

子供のことで、Aはどれほど神經

的になつたか知れないのである。

Aはその子供を田舎へやつてしま

へと女に言つたが、女はそれは出

來ませんと斷つたさうである。A

は、その子供のゐるために、苛々

しどほしで耐らないからと猶ほ幾

ども女に頼んだが、わたしにこの

やNのあることは、始めからご

存じでせう、と、そこまで女は言つ

たさうである。夜など一番困ると

Aは私にうつたへた。私はAの氣

持にほ或る程度の同情をしたが、

女の心持をなほ、いとしく思つた。

Aをすこし、エゴイスチックだと

思ふからである。

 その子供は六歳にしては氣味の

惡るいほど早熟であつた。その家

に田舎の方から出てゐる女中がゐ

たが、それと毎晩いつしょに寢せ

られるのを、ひどく嫌がつてゐる。

その女中が、性的に大分病癖を持

つてゐて、幾どもへんなにんしん

をした。夜、寢床の中で、その女

がへんな眞似をすると、男の子は

なんだか、すべてを知つてゐるぞ

といふ風な銳い顔つきをして、私

に話したことがある・・・私はうつ

ら、うつらし乍ら、そんなことを

思ひ浮べてゐる。


 膝の上にゐた子供は、つと女の

胸をひろげ、房々とした乳房をつ

まみだした。そして、幼兒特有の法

悦を顔に浮べてそれに吸ひついた

Aは顔をしかめた。そして女を銳

く睨みつけたのである。女は暗く

冷たく微笑したが、つと私の方を

みた。

「六つにもなつて未だこれなんで

 すよ」

「云ふことは大人以上ですがね」

私はその日の訪問の最初から持ち

つゞけてゐる、へんな氣持そのま

ゝのことを口にした。

 街の方で、物賣りのまのびた聲

がしてゐる。こんな日向の椽端で

じつときくと、それは、春らしい長

閑な氣持になる聲である。その聲

が近づいて來た。

「鯉やーー鯉ィ・・・」のんびりと、

はつきり聽江る。と、乳房を吸つて

ゐた子供が、それを放し、女の膝

から滑り落ちた。そしていきなり、

「こひは苦ちゆうですね。母さん、

 こひは苦ちゆうですね」と言つ

たのである。

 私は吃驚びつくりした。Aと女は、何故

だか笑ひだしてゐる。だが私は笑

へなかつた。

 子供はAたちのそばにゐて、彼

らの語る、そんな言葉をいつとは

なしに聽き覺江たのであらう・・・

自分もこの子供ほど無邪氣にもの

が云へるならば、自分こそ、彼ら

の前で、戀は苦痛ですね。と力い

つぱいの聲で叫びたいのである。

けれども、自分にはぢつとこらへ

なければならない事情はあつても

さうあらはに自分の感情をたちわ

る譯にはゆかないのである。――

ひがみの多い。そしてそのひがみ

を直接、相手の前で感じなければ

ならぬ立塲にある私は、心のうち

で、これだけのことをつぶやいた。

私は涙ぐんで春の空をみ上げた。

鯉賣りの聲は、餘韻をひいて、

遠くの方から聽江てゐる・・・(終)

         (十三年四月稿)


(越後タイムス 大正十三年五月十一日 
      第六百五十號 三面より)


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