惡 魔 派 (一)
◇夢――ことに少年期から靑年期
へ移らうとする年頃の男や女にと
つて、この夢ほど彼等の純情にみ
ちた生活を豊潤にするものはない
と思ひます。いろんな未知の世界
や空想の事柄に對しての、飽くこ
とのない憧憬の連續――若しさう
した貴い意味を湛江てゐる夢や幻
想が、人生にゆるされないものと
したならば、どんなに人生は淋し
い、空漠なものとなつて残される
でせう。
◇私が今お話しやうとする私の昔
の思ひ出は、そんな意味をよそに
しては、何の興味をも喚起さない
事柄なのです。何故ならばそこに
は、ただ、ほしいまゝな靑春期の少
年の官能の戯れだの、はためきだ
のが思ひきり跳ねたり、踊つたり
する、めまぐるしい光景が展げら
れてゆくばかりで、恐らく、もう
人生のなかば以上を生きて來て、
純眞な感情や自由な熱情だけでは
既に人生を考へることの馬鹿らし
さを身にひし/\と感じ出したと
いふやうな、いはば人生の成熟の
域にある人々にとつては、實に文
字通りに一顧の價値もないことな
のですから。・・・・・・・
◇それは私の十八歳の冬のことで
した。海邊から吹き上げてくる、
厚い硝子の層にも似た冷たい風は
痛いほどの粉雪を、いつぱいくゝ
んで、ポツネンと立ち並んでゐる
街路樹の葉の無い枝をふるはせ、
その傍に、寄添ふやうにしてその
靑い、呆けた光を路上の雪に投げ
かけてゐる瓦斯燈の支木をもゆす
ぶつてゆきます。
◇電線のたるむ唸り聲や、どこか
で仕舞ひ忘れた看板のガタ/\ゆ
れる音――それに交つて、雪に閉
ぢこめられた暗い海の彼方からは
心に泌みつく汽船の笛がきこ江て
くるほか――荒れ放題の吹雪の夜
更けは、物凄いほど淋しい騒音に
かき亂されてゐたのです。
◇この國でも一番古い開港塲の一
つであるY市の海岸に近い、或る
大きな街――といつたら、一度で
もY市の海岸通を散歩したことの
ある人々には、こんな吹雪の夜の
情景が、どんなにか靑年のかぎり
の無い幻想にふさはしいものであ
るかが直様解るはずです。
◇初戀をも知らない、生々しい一
人の靑年が、淺間敷いほど、春の
血を泡だゝせたり燃江たゝせたり
しては眼に浮ぶかぎり心に描き出
されるかぎりの幻想に惱まされな
がら、戶外の雪夜を懐しんでゐる
光景――無意識のうちにも、荒み
きつたある享樂の憧憬に心を走ら
したり、身体全体をうちふるはせ
たりし乍ら、その甘い幻影の中に
とろけ込まうと死物狂ひになつて
もがいてゐる一室の光景――私が
短い言葉のうちに斯う云つただけ
で、その靑年期に一度でも私自身
と同じ經驗を持つた人々ならば、
その刹那のさまざまな幻影への惑
溺に夢中になつてゐる靑年の姿態
を、いち/\明瞭と眼の前に描き
出すことが出來るでせう。
◇おまけにその頃の私の宿所とい
つたら、古い洋館の二階の階段に
とつゝきの、日本室にして八畳位
敷ける大きさの一室で、古ぼけた
寢臺と脚の確りしない机と、發條
のきかない椅子とが二組づゝと、
鼠色の壁には、複製のミレーの晩
鐘の繪額と、裏通の廢屋にも似た
ごた/\した日本建家屋の板壁や
くづれかゝつた瓦などが蔽ひかぶ
さるやうに直ぐ眞近に押し寄せて
ゐるのがみ江る一つの窓や、その
窓の傍らには素朴な棚があり、そ
の上には亂雜に、大きな椰子の實
だの、蘭領印度から持つて來たさ
ま/″\な、奇妙な織物だの、南洋
向の人形だの、陶磁器だのが、積
み重ねてあつたりするほか――全
く一つとして飾りらしい色彩の見
出されない室には、それに相應し
い頽廃的な雰圍氣が、その特有の
重苦しい、かび臭い臭ひさへ漂は
し乍ら、かもされてゐるのです。
◇人一倍、空想や憧憬や幻想の世
界に耽溺する性癖を持つてゐた若
い私と、もう一人Kといふ男と二
人がこの陰慘な一室に住んでゐた
のです。厚い壁を隔てゝはゐます
が、その隣室は、私達の炊事をや
つて呉れる若いY夫妻の寢室だつ
たのです。私は今、Yに就いては
何も思ひ出を持つてゐません。又
Yの妻に關しても餘り深い印象を
たぐり出すやうな材料を持つてゐ
ません。
◇私は私自身の話に入る前に、そ
の頃の私によつて、いちばん影響
のあつた、又彼自身も非常に異色
に富んでゐた、忘れがたいKに就
いて、すこしばかり話すことは、
決してこの話の本筋にとつて冗漫
なことでもなく、かへつてこの話
に大きな興味をもたらすことゝ信
じますから、私の共同生活者のK
とは一体どんな風な性格を持つた
男であつたか?彼はその頃どんな
生活を送つてゐたか?又は私と彼
とはどんな交渉を、お互の生活の
上に交へてゐたか?――そんなこ
とについて簡単にお話することは
あながち徒勞なことでもあります
まい。(つゞく)
(越後タイムス 大正十二年一月廿八日 第五百八十二號 四面より)
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