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吾が日記序文

 自分は今迄に幾度も日記を

書き綴らうと思ひ立つた。さ

うして書店の棚から、氣まぐ

れに一册の日記帖を買つて來

て、多少子供じみた嬉しい氣

持で、新らしい紙の匂ひのす

る第一頁から順々に、自分の

生活を記録してみた。然し、

ものに倦み易い自分の心は、

その一册を、即ち自分の一年

間の生活を、完全に書き續け

ることが出來なかつた。何月

何日といふ風に、限られた一

日づつの頁のなかに、必ず何

か書きつけなければならない

といふ、一種の義務的な壓迫

を感じ、自分はいつのまにか

その日記帖を投げ出してゐた

 こういふ結果になるのは、

自分に日記を書く趣味がなか

つたことが、最大の原因であ

つた。自分は日記を書くのに

不適當な人間である。

 自分は只、さまざまな装幀

の日記帳が、書店の店頭に竝

べられる年の暮れ近くの、あ

の慌だしい、賑かな氣分が奇

妙に好もしいのである。その

頃、街を歩くと不思議に―來

年から自分もひとつ日記をつ

けてみやうかな―といふやう

な漠然とした氣持を覺えるく

せがあつた。

 こういふ氣まぐれな心持か

ら日記を書くわけだから、到

底長續きする筈はない。日記

しるして後年の參考にすると

か、將來の戒しめにするとか

いふ、殊勝な心懸けなどは毛

頭ない。歳暮の買物をかかへ

て、急がしさうに往來する人

びとに交つて、今買つたばか

りの日記帖をぶらさげ乍ら、

ゆつくりと銀座の舗道を散歩

する氣分は珍重である。自分

はいはば只だ日記帖を買ふと

いふことだけに満足してゐた

わけである。

 每朝八時に家を出て、九時

に會社の机に向ひ、夜は六時

過ぎに退社して、時には藝者

や酒場の女給や芝居を見たり

もするが、さうでない時は、

ネオンサインラムプの街銀座

を横斷して眞すぐに家へ歸り

二歳になる子供がよちよち歩

きをするのに親らしい興味を

覺え乍ら夕飯を食べ、夕刊を

讀んで、ラヂオと蓄音機をき

いて、それから母や妻が洗ひ

張りものを縫つてゐるそばで

本を少々讀み出すと、晝の疲

れで直ぐ眠くなるといふやう

な、こんなつまらない自分の

毎日の生活を、何百日書き綴

つてみたところで、何の役に

もたつものではない。

 一昨年、三年間日記といふ

ものを買つて、それは一頁を

三つに分けて三年間の同日に

起つたことを、一頁のうちに

見ることができるやうに仕組

んだものであつたが、これは

便利なものだと思つて、どう

やら一年間だけは書き続けて

みたが、次の年になると、去

年と少しも變らない、もの憂

い、無爲な、ぐうたらな、退

屈な生活を、同日の欄に書く

ことが嫌になつて、この日記

も續かなかつた。

 ところが今日二十八になる

弟が來て、第一書房の日記

帖をお歳暮に呉れた。今年の

暮れは、政友會内閣が成立し

て、金再禁止を直ちに決行し

華ばなしい政策を掲げて民心

を煽つたものだから、近年稀

れにみる熱狂的好況を呈して

ゐる。株式、米、綿糸、生糸

砂糖等の狂騰に發端して、自

分の日常關係してゐる鐵、銅

眞鍮、鉛、錫等の金属や紙な

ど、最低一割から最高四割ま

で騰貴し、商人の話によると

世界戰爭時代を偲ばせるもの

があるさうで、どこをみても

えらい鼻息である。ぼんやり

してゐる場合ではない、こう

いふ時を見逃したら二度と金

儲けの機會はありませんやと

けしかける。元もと金儲けと

きいたら眼のない自分は、は

つと曇つた活眼を皿のやうに

見開いた次第である。さうし

て若し、この好況がフーヴァ

景氣のやうに煙のやうなもの

でなく、しつかりと大地を踏

みしめてゐるものならば、正

しくこの際自分の生活態度を

改めなければならぬと思つた

自分の娘もよちよち歩るき乍

らも、もう直ぐ三歳だ。うか

うかしてはゐられない、子供

への見せしめのためにも、き

ちんとした生活をしなければ

ならぬ。幸ひに、弟が高雅な

日記帖を呉れたのだから、以

前のやうな氣まぐれからでは

なく、眞剣な氣持で日記を書

き綴らうと思つたのである。

精神生活の豊富でない、むし

ろ、物質生活の従者のやうな

自分の生活記録でも、この華

麗な書册にしるされたならば、

或ひは多少の光輝を發するに

ちがひないと信じる。

 或ひはこの一册を一年たた

ないうちに書きつくして了ふ

かも知れない。わるくすると

十年も二十年もそれどころで

はない、自分の一生を終るま

で、これを書き埋め得ないか

も知れない。

 何れにしてもこの中で、自

分は虚僞を書かないつもりで

ある。

 正直な、ひたむきな生活記

錄―これがこの日記を書き始

めるに際しての、自分の只一

つの心願である。

   (昭和六年十二月稿)

(越後タイムス 昭和七年一月一日 
   第一千四十二號 三面より)

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        ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

      この記事の草稿が書かれている第一書房自由日記。

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