新札と天神祭
今日は天神祭2日目。
世の男女や家族が夏を感じに出かける最中、おれは仕事を早めに切り上げ、「新札ってもう見た?」という旬な話題を肴に、ぼぶさんと梅田で飲んでいた。
断っておくと、ぼぶさんは優しい日本人で、職場の先輩的な存在だ。
まだ新札を一度も見たことがないおれに、ぼぶさんは流暢な日本語で
「ホログラムがすごいよ」
「7月の最初のほうに見た」
と語ってくれた。「へぇー、それはラッキーでしたねぇ」などと相槌を打ちながら焼き鳥をほおばっていると、その時事件は起こった。
こちらの席の横を通り過ぎようした男の鞄がおれのグラスに当たり、ビールがこぼれたのだ。
しかも不運なことにビールは先ほど注がれたばかり。グラスは勢いよく倒れ、グラスいっぱいのキンキンに冷えたビールがおれの下半身に降り注いだ。
咄嗟におれは
「うわぁあああ!!!」
となんとも情けない声をあげ、その声は狭い店内を駆け巡り、他の客と店員にこの場で起きている異常事態を知らせる。
店内は一瞬静まり返り、すぐさま店員とこぼしたおっちゃんが駆け寄ってきて「大丈夫ですか?」と声をかけてくるが、あまりにも尋常じゃない下半身の洪水被害にただただ呆然とするしかない。
ただ、その時のおれはいつもと違い、かなり冷静だった。
きっと気前のよい発声を一発ぶちかましたからかもしれない。
さらにこんな恥ずかしい状況を店中の人に見られてしまっているので、もう怖いもの知らずである。
そんな、頭は冷静(クール)、心は熱い(ホット)状態で、
「すみません!すみません!」
と自身のハンカチでおれのズボンを拭くおっちゃんを眺めながら、
“どうブチギレてやろうかな”とか
“どう落とし前をつけてもらおうかな”
と次のアクションに想いを馳せていた時、急に展開は移り変わる。
もうハンカチじゃどうにもならないことを察したのか、おっちゃんが突然、
「クリーニング代とビール代を弁償します!!」
と財布から2千円を取り出した。
あまりの展開の速さに一瞬ひるみそうになるが、“でも、落ち着け。その行動は遅かれ早かれ予想はできたことじゃないか”と自分をなだめる。
ただ、そのおっちゃんが手に持っていたものにおれは再び動揺させられてしまう。
「野口英世ではない人物」と「きらりと光るホログラム」。そう、新札だ。
“あぁ、まさかこんな形でお目にかかるとは…”
と新札との初対面を口惜しがりながら、おっちゃんとの調停は続くが、その人の繰り返す謝罪と弁償しようとする姿勢に“なんだかもういいかな”と内心思い始めていた。
幸いなことにその日の格好はTシャツに短パンとビーサン。家も居酒屋から自転車で15分ほどなので、少し我慢すればどうってことないことにも思えてきた。
早くこの場を収めたい気持ちも大きくなり、「いやいいです、お金をしまってください」とお金を渡そうとする手を止めた。
しかし「いやいや」とその人も負けじと支払う姿勢を崩さない。それでも「いやいや大丈夫です、財布にしまってください」と続けている中、ちらりとぼぶさんの方を見ると、あさっての方を眺め、「我関せず」をキメこんでいた。
ぼぶさんとはそういう男である。
結局こちらが折れ、その2千円を受け取って、事件は一件落着となる。
その後、ぼぶさんはその一件について哀れんだり、怒ったりした。時折なんだか気の毒そうにも接してくるので、こちらも気を使い、ならばと話題を変えてみるのだが、なぜか話を引き戻されてしまい、また哀れんだり、怒ったりする無限ループから抜け出せずにいた。
この人はおれにどうしてほしいのか。気持ちを切り替えてほしいのか、それとも先ほどの一件をいじりたいのか。
いずれにせよ、意図がわからない行動におれはただただ戸惑うばかりだった。
20時ごろ。十分食って飲んでを繰り返したおれとぼぶさんはすべてに満足し、お会計を済ませて店を出ることに。すると店員の男が
「大丈夫でしたか? いくらもらったんですか?」
と声をかけてきたので、
「2千円です」
と答えると、「2千円かぁ…」とひとこと。なぜお前が悔しがる。
ぼぶさんは「常習犯だったよ、たぶん。おれだったらもっともらったね」と。邪推はやめてほしい。
せっかく気持ちよく許したというのになんだか報われない気持ちになりながら、ぼぶさんとおれはそれぞれの帰路に着く。
梅田から京橋への帰り道。自転車をこいでいると、いつもより浴衣を着た歩行者が多いことに、なんだか胸騒ぎがしていた。
その数分後、花火が打ち上がり、佳境を迎える天神祭。色めき立ちながらもゆったり進む人の波を、汗と乾いたビールで体がベトベトになりながら、自転車を押して帰ることになる。
胸騒ぎがしたタイミングでルートを変えれば避けれたものを、一刻も早くビールを洗い流したい一心でいつものルートを帰り、後悔しても後の祭りである。
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