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善意は無尽蔵ではない

年末年始、昔はテレビの特番などを楽しみにしていました。今ではすっかりそんな習慣もなくなったので、よく知りません

東西お笑い対抗みたいな番組、今年もやってたみたいですね。あれも新年の楽しみな番組のひとつでした。お正月のおめでたい雰囲気もよかったです。

その番組に出ていたネタで、不定期的に探しにいってしまうのが、かまいたちのコントです。中国の動画サイトにあるので、一応、リンクを貼っておきます。

ある生徒が花瓶を割ってしまうところから、物語は始まります。その生徒をかばうため、ひとりのクラスメートが先生に「自分が割ってしまいました」と嘘をついてあげます

しかし、かばわれた方の生徒が、嘘をついて守ってくれたクラスメートを追い詰めていき、嘘をついてまでかばってくれた方のクラスメートが大変な目に遭うというストーリーです。

コレ、めちゃめちゃ可笑しいです。可笑しいですけど、コレは現実に起きていることだとも思います。

 日本は中国で改革開放政策が始まった1979年以降、円借款、無償資金協力、技術協力といったODAを約40年間で計3兆6500億円余り拠出。道路を含むインフラ整備などを通じて中国の近代化を支えてきた
 一方、中国が急速な経済発展を遂げたことで対中ODAを疑問視する声も上がり、対中円借款は2007年に新規供与を終えた。さらに中国は10年に国内総生産(GDP)で日本を抜き、米国に次ぐ世界第2位の経済大国に成長。政府は今回の首脳会談を機に拠出を終了する意向を固めたとみられる。すでに事務レベルで中国側へ伝えており、政府関係者は「中国も了承している」という。

朝日新聞デジタル「中国へのODA終了へ 40年で3兆円、近代化支える」
2018年10月23日より引用

これだけの経済援助をしたところで、中国から日本に向けられるのは、強烈な反日運動・プロパガンダばかりでした。日本からのODAを受けておきながら、同時期に中国は、アフリカへの経済支援を通じて、同地での利権を大幅に拡大させていたといった指摘もあります。

経済的な支援だけではありません

天安門事件後、日本政府は中国の孤立化の回避を訴え、西側の首脳として初めて海部俊樹首相が訪中するなど、中国の国際社会への復帰を手助けした側面がある。中国は現在、尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺に連日のように公船を航行させるなど挑発行為を続けているが、当時の為政者はこうした日中関係の姿を、どこまで予測しただろうか。
 天安門事件後、政府は欧米に先駆けて対中制裁を解除し、当時の天皇陛下の訪中を実現させた。中国の銭其●(=王へんに深のつくり)元副首相は、日本が西側の経済制裁を打破する際の「最もよい突破口」となったとし、「天皇がこの時期に訪中したことは、西側の対中制裁を打破するうえで、積極的な作用を発揮した」(『銭其●(=王へんに深のつくり)回顧録』)と明かしている。

産経新聞「天安門事件30年 中国の国際復帰手助けした日本 国益確保へ問われる戦略」
2019年6月3日より引用

天安門事件により、国際社会において完全に孤立化してしまった中国に対して、救いの手を差し伸べたのは、ほかでもない日本でした。当時の首相や天皇の訪中は、中国に課せられた経済制裁を打破するのに、非常に効果的であったと言われています。

もちろん、今の中国から、そうした日本の対応に対するポジティブな反応示されることはありません。むしろ、日本を追い詰め続けています

まさに、かまいたちのコントさながらの状況です。

俺の優しさを踏みにじってるのが嫌や(泣き声)」

ほんと、こんな感じではないでしょうか。これが中国の動画サイトに掲載されて、中国語圏の人々に楽しまれているというのは、これはこれで、ちょっとしたジョークのようにも思えます。


ただ、このテーマで、ひとつだけ考えておきたい問題があります。

それは、そもそも善意などというものは、無尽蔵ではないということです。余裕がない状態で、善意を振りまいてしまうと、大変なことになる可能性があります。少し言い方を変えるのであれば、「捨てられてもいい」、「踏みにじられてもいい」範囲で施していかないと、いろいろとトラブルの元になるということです。

例えば、一番分かりやすい例でいえば、お金の貸し借りです。

困っている人に善意でお金を貸すこと自体、悪いことではないと思います。むしろ、道徳的な行為と言えるかもしれません。しかし、自分にとって必要なお金無理して作ったお金を貸してしまうと、(相手の善意・悪意に関わらず)お金が返ってこなかったとき、トラブルになりかねません。

自分も余裕がないわけですから、「なんで返してくれないんだ!」、「返してくれなきゃ困るだろっ!」ということになります。

お金を貸してあげるときなどというのは、返ってこなくてもしょうがないと思うくらいがちょうどいいものです。「捨ててもいい」とまでは言わなくても、「返ってこなくてもいい」、「踏み倒されてもいい」くらいの範囲で、余裕をもって、できることをするのが基本です。

善意なんてものは、無尽蔵ではありません。無尽蔵でもないのに、それを無理にひねり出そうとすると、相手に裏切られたときに大きな傷を負ってしまうことになります。善意を施すときというのは、自分にも、それなりの余裕がないといけないということです。

つまり、いくら善意を施したくても、自分に余裕がないのであれば、それは「相手の問題」と割り切ることも必要だということでもあります。それは、少し違う話に聞こえるかもしれませんが、こちらで言及した「間」の話に通じるものです。

「間」とは、どこまでを自分の問題と捉えるのか、という問題です。それはすなわち、自分と他者(あるいは世界)との境界線を見極めるということでもあります。
こうしたことは、人生のあらゆるところに通じる大切なテーマだと思います。

「「間」を見極める」より引用

どこまでが自分の問題なのか、どこからが相手の問題なのか、自分が関われるのはどこまでか・・・そういうことを抜きにして善意を施すと、いろいろと揉めたときにややこしくなります。

ただ、日本と中国の問題については、そもそもが「善意の話」とは違うかもしれませんね。

ただ政治家が、利権でつながっているだけ・・・?

そういう意味で、国家間の善意などというものはよく分かりません

少なくとも私たちは、個人レベルで「かまいたちのコント」みたいにはならないように、心がけていきたいものです。


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