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記紀以前の世界 ~謎の大臣・武内宿禰~

日本の歴史を考えるうえで、記紀以前の世界を紐解いていくことは、大変難しい作業です。記紀の研究は、最近始まったものではなく、例えば古事記については、17世紀頃から本格的に始まったとされています。それでも分からないことだらけなわけです。

当然、記紀以前の出来事について、定説があるような状況にもありません。そもそも「実在した天皇は誰からか?」ということについて、未だにいくつかの説に分かれるくらいです。

ただし、この問題を読み解くコツがないわけではないと思います。

ひとつは記紀以前のストーリーは、天皇だけでなく、神様たちが入り乱れて登場する、空想のような世界観になっています。したがって、それを逆引きするには、同じように空想のような着眼も必要だろうということです

その空想のような着眼というのは、例えばある人物を2つの別のキャラクターに分けてみたり、複数の人物を1つのキャラクターに統合してみたり、といったようなストーリー操作があっただろうという見方です。そのような着眼については、既に「聖徳太子=蘇我氏」という解釈において、ご紹介させていただきました。

登場人物だけではなく、当然、時系列についても、いろいろといじられている、情報操作がされていると考えた方がいいでしょう。ただし一点、注意すべきは、その情報操作が「どのような意図で行われたのか?」について考えることです。ここが極めて重要なポイントになります。

空想のようなストーリーを、ただ同じように空想のような着眼で紐解いただけでは、現実から大きく乖離してしまうでしょう。重要なのは、「なぜそのような情報操作がなされたのか?」を念頭に置きつつ、大胆に空想のような着眼をすることで、実体がみえてくるだろうということです。

さて、そのように考えた場合、ここで気になる人物を一人挙げておきたいと思います。

それが武内宿禰(たけうちのすくね)という人物です。この人物、日本の古代史を考える上では、けっして外すことができません。武内宿禰について、ウィキペディアでは以下のように記されています。

景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。
※ウィキペディア「武内宿禰」より引用

武内宿禰は、5代もの長い間天皇に仕えた大臣であり、大変な長生きをしたということで、「長寿の神様」ということにもなっています。

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系譜を見ると、波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏など、錚々たる古代豪族たちの先祖となっています。もちろん、このなかで最も有名なのは蘇我氏でしょう。

今の日本人にはほとんど知られていませんが、かつては、紙幣にも使われていた人物でした。武内宿禰をご祭神として祀る宇倍神社には、武内宿禰が使われていた5円紙幣をモチーフにしたお守りがあったりします。

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他にも、いくつもの紙幣の肖像に使われれるほど、戦前日本では馴染みのある人物だったのです。

戦前の日本の紙幣をみると、肖像に使われていたのは、神功皇后、大黒天、菅原道真、武内宿禰、和気清麻呂、藤原鎌足、聖徳太子などになります。戦後、日本の古代史に登場する人物は、聖徳太子しかいなくなってしまいました。

紙幣というのは、国民がほぼ毎日触れるものです。当然、日本国民の意識に与える影響は計り知れません。戦後、敗戦した日本で、そうした古代日本史に登場する人物が消えてしまったのには、戦勝国側の意図がある可能性は否定できません。そして、そこに武内宿禰という人物がいたにもかかわらず、今の日本社会から完全消去に近い状態になっていることに、ちょっとした違和感を覚えます。

そしてこの武内宿禰、長寿なだけでなく、結構、いろいろな秘話がありそうな人物です。

そのうちのひとつとして、この武内宿禰が、神功皇后と通じていて、実は応神天皇は、武内宿禰と神功皇后の間に生まれた子供ではないかという話があります。系譜上では、応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた子供ということにはなっています。しかし、仲哀天皇の亡くなり方をみると、何やら武内宿禰と神功皇后との間に怪しいものを感じてしまうのです。その様子は、以下の通りです。

橿日宮で神託を引き出そうとしたとき、仲哀天皇は神下ろしのための琴を弾き、武内宿禰は庭に侍り、神の言葉を請い、神功皇后は神の言葉を伝えた
 ところが仲哀天皇は「嘘をつく神だ」と罵り、琴を弾くことをやめてしまった。すると神は怒り、「死の国へ行け」と告げた。武内宿禰は「琴を弾かれますように」と勧めたが、しばらくして静かになったので、そっと明かりを近づけてみると、すでに亡くなっていたという。
※関裕二「出雲大社の暗号」講談社 2010年 P.187より引用

仲哀天皇が亡くなられたとき、その現場にいたのは武内宿禰と神功皇后だけでした。そして、しばらくの間、二人は仲哀天皇の死を秘匿し続けたと言います。二人の間に怪しいものを感じざるを得ません。その後、武内宿禰と神功皇后は、九州を経て三韓征伐を行うのです。

もちろん、そうは言っても、実際のところよく分からないとも言えます。ただ例えば、「武内宿禰 応神天皇」で調べると、赤ん坊の応神天皇を抱いている武内宿禰の画像がたくさんヒットします。

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それだけではありません。全国にある八幡宮のご祭神は、応神天皇です。応神天皇=八幡様なわけですが、八幡宮の本殿の横には、大抵「武内社」と呼ばれる社があります。これは武内宿禰を祀っているものです。

八幡宮の総本山である宇佐神宮の上宮には、応神天皇や神功皇后などが祀られている御殿の隣に「武内社」ではなく、「住吉神社」があります。

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住吉神社の神様は、住吉大神と言われています。この住吉大神というのも、実は武内宿禰であると考えられるのです。

住吉大神で有名な大阪の住吉大社のホームページには、「鎮座の由緒」という項目で、以下のように記されています。

住吉大社は、第十四代仲哀天皇の后である神功皇后 (じんぐうこうごう) の新羅遠征(三韓遠征)と深い関わりがあります。神功皇后は、住吉大神の加護を得て強大な新羅を平定せられ無事帰還を果たされます。この凱旋の途中、住吉大神の神託によって現在の住吉の地に鎮斎されました。のちに、神功皇后も併せ祀られ、住吉四社大明神として称えられ、延喜の制では名神大社、二十二社の一社、摂津国一之宮、官幣大社に列せられています。
住吉大社HPより引用

神功皇后に仕えて三韓遠征を行ったのは、武内宿禰です。つまり、ここでいう住吉大神というのは、武内宿禰のことを指しているわけです。

応神天皇が祀られている八幡宮には、本殿の横に必ず武内宿禰がいる・・・応神天皇にとって、武内宿禰というのは、それだけ特別な存在なわけです。ちなみに、応神天皇は九州で生まれたとされています。だから全国八幡宮の総本宮は、九州・大分の宇佐八幡宮になっているわけです。

ともあれ、武内宿禰は、上掲のウィキペディアで「蘇我氏の祖」であるともされています。古事記や日本書紀で、大悪人となっている蘇我氏、一方で聖人に描かれている蘇我系人物の聖徳太子・・・記紀以前のストーリーを紐解くうえで、蘇我氏の祖である武内宿禰の実像は、かなり大胆な発想で推察するだけの価値があると思います。

いや、逆かもしれません。記紀を作った人たちからすると、かなり大胆な発想で、それらの歴史を隠す必要があったと言うべきでしょう。

では、記紀以前の本当のストーリーとは、いったいどのようなものだったのしょうか?これはまた、別の機会にまとめてみたいと思います。


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