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蘇我氏の無念に思いを馳せる

日本の古代史を考えるうえで、古事記と日本書紀記紀)を外すことはできません。それらの書物によって、日本の古代史の謎を紐解くことは、大変重要な作業です。

しかし同時に、それらの書物がどのような意味を持っているかについて、きちんと理解していないと、荒唐無稽な神話の世界に振り回されるだけになってしまいます。

私は、記紀持統天皇と藤原不比等といった、「天智系」朝廷の正統化に使われたのではないかと思っています。

つまり、記紀のなかで表されている天照大神と武甕槌命・経津主命の構図は、大化の改新後、記紀をまとめた時代である持統天皇と藤原氏を表していると思われるのです。

 国のトップ=天照大神(女神)、功臣=武甕槌命・経津主命
 国のトップ=持統天皇(女性)、功臣=藤原不比等(藤原鎌足?)

記紀は、天武天皇によって編纂が命じられました。しかし、こうしてみてみると、それらは持統天皇・藤原不比等の正統化に使われた可能性があるとみなければなりません。そこには、一代では終わらない天智系と天武系の権力闘争があったと考えられます。
※「「持統天皇と藤原不比等」の正統化」より引用

ここでいきなり、「天智系」朝廷と言われても、訳が分からないと思うので、こちらをご覧ください。

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この系図のうち、赤い点線枠内が天智天皇系であり、緑の点線枠内が天武天皇系です。記紀で正統化されたと思われる「持統天皇と藤原不比等」は、上の赤い点線内・天智天皇系に属します。

この天智天皇天武天皇は、兄弟です。また天智天皇の娘である持統天皇と天武天皇は夫婦でもあります。したがって、ここの関係はちょっと複雑です。

しかし、その複雑さのなかにあって、この時代、「天智系」と「天武系」というのは、激しい権力闘争をしていたのではないかと思うのです。

実際、天智天皇が亡くなった後、天智天皇の息子である大友皇子と、天智天皇の弟である天武天皇(大海人皇子)が皇位をめぐって戦争をしています(壬申の乱)。この時代、これからしばらくの間、皇位継承という権力移行は、ちょっとゴタゴタしたはずです。

ここでひとつ、天智天皇と天武天皇の母親に注目したいと思います。その人物は皇極天皇(重祚しているので、斉明天皇と同一)です。

皇極天皇は、天智天皇(中大兄皇子)が、蘇我氏を討った(乙巳の変)時の天皇です。通説では、蘇我氏が政治を乗っ取っていたわけですから、皇極天皇は「乗っ取られていた側」ということになります。

しかし私は、元々、天皇家というのは、蘇我の人々だったのではないかと考えています。記紀が歴史を捏造し、蘇我氏の正統性を隠すために生み出されたのが、「聖徳太子」というフィクションだったと思うのです。

そう考えると、皇極天皇も自ずと蘇我側の人物ということになります。実際、皇極天皇が舒明天皇に嫁ぐ以前、蘇我系の高向王(たかむくのおおきみ)と結ばれていて、漢皇子(あやのみこ)を産んでいます。以下、ウィキペディアにおける「高向王」の記述です。

のちに斉明天皇となる宝皇女との離別の理由もよく分かっていないが、天智天皇の生年(推古天皇34年、626年)以前の出来事とされ、田村皇子(舒明天皇)の即位以前のことであるため、皇子との結びつきが非常に重要になる。
その名前から高向臣が資養にあたったとされ、高向国押が蘇我本宗家滅亡の際に中大兄皇子に対して軍陣を張ったことなどから、蘇我氏との関係が深かったことが推定される。
※ウィキペディア「高向王」より引用

こうしてみてみると、蘇我氏を討った天智天皇(中大兄皇子)以外、天皇家のなかは、総じて蘇我氏だらけだったとも思われるのです。もちろん、皇極天皇の息子である天武天皇も蘇我系の人物だったのではないかと推測できます。だからこそ、壬申の乱のような、「天智系」と「天武系」の争いが起こったのではないでしょうか。

つまり、「天智系」と「天武系」というのは、「反蘇我」と「親蘇我」という対立軸として捉えることができるのではないかということです。

このように見てみると、この時代の天皇家内部の対立は、極めて深刻だった可能性があります。そういう意味で、神武天皇から始まった日本の歴史において、記紀(古事記&日本書紀)が書かれるようになった経緯については、慎重にみておく必要性があると言えます。

普通に学校で教わった歴史だけで考えれば、「蘇我氏=悪い奴」という構図になるでしょう。しかし、それは本当なのか?ということです。

蘇我馬子イコール聖徳太子でしょ。ピッコロ大魔王みたいに善の部分は聖徳太子悪の部分は蘇我馬子みたいな。そんな分けられ方されてるんちゃう?って思うくらい不自然やん。
よくよく考えたら、聖徳太子馬小屋で生まれたから厩戸皇子って呼ばれてるでしょ?で、蘇我馬子も馬の子なんですよ。ダブル馬コンビなんよ。

聖徳太子の実在性が疑われるとしたら、蘇我氏の正統性は闇に葬られた可能性が高くなるのです。

そんなわけで、私としては、蘇我氏って本当に悪者だったのか?ということについて、よくよく考えてみる必要があると思っています。

蘇我入鹿は、記紀史観で考えると完全に悪者です。

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奈良・飛鳥寺の隣にある蘇我入鹿の首塚は、そんな歴史観を反映していると思います。とても寂しいところにあります。

奈良に行って、時間さえ許せば、私はここで手を合わせるようにしています。仮に記紀によって、日本の歴史が大きく書き換えられているとしたら、大悪人に仕立て上げられた蘇我氏の無念はいかばかりかと、考えずにはいられません。

そんなことを考えつつ、私は、今の天皇や皇室を見つめるようにしています。

皇室の祖神・皇祖神という天照大神は、出雲の大国主大神に「国を譲れ」と迫りました。ある意味、国を奪い取ったわけです。そう考えると天照大神って、そんなに偉いのか?などとも考えてしまいます。

私はむしろ、国を作っておきながら、それを奪われたとも考えられる大国主大神や蘇我氏の無念に思いをを馳せたいと思うのでした。


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