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No,173.世間一般的な価値観を押し付けることに意味はあるのか?

はじめに

中学生の時、岡本太郎や尾崎豊、ここ最近では大西拓磨さんをみて芸術分野に世間一般の道徳心を求めることに違和感を感じている。

音楽は芸術か?といった小難しい議論は多岐に渡るが、とにかくモノを作り出し(作詞・作曲)、世に出す、そして聴く側になんらかの影響を与える。

つまり、受け手(聴く側や見る側)の「閉じられた状態」において、それまで出会ったことがないモノを生み出す点においては、芸術だろう。

● 芸術としての音楽:みずからの理想や音楽観を追求し表現する音楽
● エンタメとしての音楽:聴き手と文化が存在するという前提に立って、市民に受け入れられるための音楽

新垣 『音楽という<真実>』

そんな芸術に関して、ニーチェはこんなことを述べている。

「芸術的陶酔が悪用からの危険から逃れ得ないのである」

学問と芸術について

◉ 学問とは

人間とは欲の塊であるが、その陰に禁欲的理想つまり意志の力によって欲を克服できる。学問は禁欲的理想の最も上品な形態である。また文化というものに携わってきた人間の営為もそれである。だが、その学問も心理を追求するあまり何かを置き忘れてしまったのではないのか。禁欲的理想により生の矮小化となり、道徳と学問のコンフリクトにつながった」と述べている。

ニーチェの言葉

つまり「人間は欲の塊(食べたい時に食べ、怒りのを暴力に変えるなど)だけど、意志の力によって制御できる。学問はその中でも最も欲を抑える理想の形だろう。近代文化を形成してきた仕事もそうだろう。しかし、それを追求するあまり何か置き忘れているきがする。欲を制御することが美しいものだといった価値観により、小さくまとまった生き方(リスクばかり考える)になり、自発的に行動することに苦悩が付きまとうようになった」

◉ 芸術とは

芸術については「悟りや人の道を語り信奉者を増やし、あたかも神の腹話術師のような道徳心(ここでは禁欲的理想)を語ることは人々に催眠をかけているだけであり、およそ無駄である。真の芸術家とは、緊張と準備の段階において、いかに同衾が邪魔になるかを知っており、こういった性的興奮を知ったうえで昇華させ陶酔に至る。この陶酔が力になり新たな規範を生みだし、従来の規範組織に囚われないことが芸術家たる所以である」と述べている。

ニーチェの言葉

つまり「神や仏の代弁者のように自らを律する大切さを諭すように語ることは無駄だろう。真の芸術家とは、創作中に恋愛のようなものが邪魔になることを知っている。こういった性的興奮を知ったうえで不満や怨恨、劣情などを、芸術への情熱に変えて酔いしれる。この力が新しい価値観を生みだし、従来の社会的価値観にとらわれないところが芸術家である」

総括

新たな価値観を創造する何らかの力の表現は、道徳心を前提とする欲を制御するといった理想とは、芸術にとって何の意味も持ち得ない。しかしこの芸術的陶酔が悪用からの危険から逃れ得ないのである。

ニーチェは、このように芸術は学問より遥かに根本的なかたちで禁欲的理想というものに対立していると述べている。

真の芸術家は、逃れ得ないからこそ、禁欲的理想と芸術的陶酔バランスを保つことが困難だろう。

おわり

芸術家の言動や行動に対して、才能もない一般人がとやかく言うことは、素晴らしい作品が世に出ない可能性がある。

そもそも、一般人(才能のない)だからこそ世間一般の道徳心や規範に照らし合わすことしかできない。そのことを俯瞰してみた方がいいかもしれません(メタ認知の高さが必要)。

最後まで読んでいただきありがとうございます( *´艸`)

引用文献

林湛秀(1991)「ニーチェの [力] の哲学:禁欲的理想の問題から」『神戸大学紀要論文』創刊号、pp45-52


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