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FGO2部6章『アヴァロン・ル・フェ』感想 ~私たちの生は最初から決定されているか?~

 FGO2部6章『妖精円卓領域 アヴァロン・ル・フェ』をクリアしました。

 いやあ、まずとんでもない物量でした。だいたい1節1時間ペースで進めたので、トータルで30時間かかっただろうか。 「エピローグ」の8月4日解放分だけでも6節に及ぶ怒涛の展開。エピローグとは・・・

 そして何といってもストーリーのすばらしさ。モルガンを倒してハッピーエンドと思いきや、二転三転する黒幕。というかラスボスだったはずのモルガンの最期よ・・・ あの直後に「しばしご歓談をば」的な戴冠式の招待状が表示されたとき、マジで「人の心とかないんか?」と絶句しました。凄まじい。

 というように言いたいことは山ほどあるのですが、このストーリーに『Fateシリーズ』として大きな意味があるとすれば、それはやはり、アルトリアの「英雄になるまで」を丹念に描ききったことだと思うのです。アルトリアはまさにFateシリーズの顔であり、その生前のエピソードは『Fate/Stay night』でも断片的に描かれるところではあります。しかし「英雄になるまで」、あるいは「英雄として宿命づけられ、覚悟が決まるまで」の若き時代をここまで詳細に描いた物語は、過去決して多くはなかったのではないでしょうか。

 ですが、その「英雄になるまで」の物語は、果たして真っすぐな「英雄譚」でしたでしょうか。『アヴァロン・ル・フェ』が紡いだアルトリアの物語は、むしろどこまでも、「英雄譚らしくないもの」として立ち上がってきたと思うのです。

1. 英雄のパラドックス

 そもそも「英雄」とはなんでしょうか。

 デジタル大辞泉によると、「英雄」は「才知・武勇にすぐれ、常人にできないことを成し遂げた人」だそうです。なるほど、という定義ですが、特にマンガ・アニメの世界で言われる「英雄」に対象を絞るならば、この定義では少し言葉が足りないように思います。

 例えば、研究室にこもって、学問上の大発見を成し遂げたキャラがいたとします。その人は確かに「才知にすぐれ、常人にはできないことを成し遂げ」てはいますが、それだけで「英雄」と呼ばれるかと言うと、まだ条件がそろっていないように思われる。一方、その学問上の発見が、例えば空前の破壊力を持つ武器の開発につながり、その武器が自国を勝利に導けば、そのキャラは一気に、「英雄」らしい性質を獲得します。つまり「英雄」というものには、外部の状況を大きく変えたり、多くの人々を救ったりするような、すなわち「世界を変える」という要素が、重要なポイントとして含まれているのだと思います。

 では、例えばその英雄が、生まれつき他の人間には無い能力を持っていて、「英雄」として生きることをはじめから決定づけられていたとするなら、どうでしょうか。その人間はともすると普通に人生を謳歌して、ささやかな幸せを手にして過ごしたいと思っている。しかし能力を持って生まれてしまったばかりに、大きな責任を背負い、戦いに身を投じることを強いられてしまうのです。いわばその人間は、「世界を変える」ことを、「世界に決定づけられている」わけです。

 これが、アルトリア・キャスターの在り方です。彼女は生まれるや否や「予言の子」としてもてはやされ、そのせいで虐待ともいうべき扱いを受けて育ってきた。そして彼女自身、ささやかな普通の幸せを願っていて、背負わされた使命を下ろしたいと思っている。モルガンとの最終決戦に臨むときには、使命の意義を思うではなく、「さっさと終わらせて楽になりたい」とすら言いながら戦いに身を投じていく。しかしそれでも彼女は、その生を全うするまで「英雄」であることをやめることができない。「世界を変える存在」として、「変えようもなく世界に決定づけられている」。そんな「英雄のパラドックス」とも言うべき状況に、彼女はいるのです。

楽に

2. 英雄から魔王への反転

 さらに話が進むと、アルトリアの「予言の子」という役目が、そもそも「英雄」ではなく、むしろ「魔王」とでも呼んだほうがいいものであることが明らかになります。

 本ストーリー最終盤、アヴァロン到達時に明らかになるのは、そもそもこのブリテンがいかに成立したのか、いかに汎人類史から分岐したのか、その原因です。5章(オリュンポス)で語られたとおり、型月世界の地球はウン万年前というはるか前に、何度か地球外生命体の侵略を受けています。その都度地球は「星の内海」にて神造兵器を生み出し、これをもって領域外生命体を退けているわけですが、この異聞帯の世界線では、たまたま一度だけ、「星の内海」にいる6体の妖精が神造兵器の生産をサボってしまった。ゆえに地球上の人類は一度完全に滅んでしまい、その後6体の妖精が、厚顔無恥にも神殺しをしてまで作り上げた世界が、この異聞帯なのです。すなわちこの世界は、そもそも出自から「間違っている」わけです。サボタージュと神殺しから始まった、出自が暗い世界なのです。

 ゆえに星の内海は、この間違った世界を終わらせるために、「予言の子」たる妖精を送り込みます。それが、モルガン(トネリコ)であり、あるいはアルトリアなのです。

 このアルトリアの立ち位置は、妖精国からしたら完全に悪者でしょう。「人類は愚かなので滅びるべきだ」と主張して人類を攻撃してくる魔王を、私たちは様々な物語で見てきたわけですが、アルトリアはまさにこの「魔王」なのですから。英雄といえば、むしろ「それでも人類に希望はあるんだ!!」と叫んで魔王を倒す立場を指すはずですが、アルトリアという存在は、その逆の立場として立ち現れてくるわけです。

 するとこの物語には、最初から英雄などいなかったことになる。カルデアはハナから異聞帯を切除する気だし、アルトリアは「魔王」である。ここに、『アヴァロン・ル・フェ』の「英雄譚」としての側面は否定されるのです。

3. 『アヴァロン・ル・フェ』を覆う決定論

サボり

 「世界を変える存在」であるはずの英雄が、むしろ「世界に決定づけられている」英雄のパラドックス。アルトリアの「英雄」から「魔王」への転身。この物語がそうした「アンチ英雄譚」とも言うべき方向に陥ったその様相には、なんというか、どうしようもないこの世界への諦観のようなものを感じないでしょうか。

 FGO2部は、汎人類史からどこかのポイントで分岐した「異聞帯」を巡る物語です。ゆえにこれまでのエピソードでは必然的に、各異聞帯がいかに汎人類史から分岐したのか、その経緯が都度説明されてきました。それらはラグナロクの顛末、始皇帝による世界征服、あるいはインドやギリシャの神々の戦いによって彩られ、まさに歴史を背負う者の行動次第で「ありえたかもしれない」ものとして、納得のいくものばかりでした。そしてそれもあって、その異聞帯なりに進んできた歴史を全て亡きものにするこの戦いに、葛藤も生まれたわけです。

 しかし6章の異聞帯が生まれたきっかけは、「妖精の特に意味のないサボタージュ」です。このサボりのせいで、この世界は生まれ、妖精たちは生を謳歌し、そして最期は滅びの苦しみを味わうのです。このサボりのせいで、アルトリアは魔王として生まれ、英雄としての重圧に苦しむ生を決定づけられるのです。このサボりのせいで、モルガンの約1万年にもおよぶ苦難の生が続き、そして、凄惨な最期を迎えるのです。

 これはあんまりではないですか。私たちは生まれてしまった以上、その生がより意義のものになることを願い、そうなるように励みます。この世界がよりよいものになることを願い、そのようになるよう努力します。しかし、その生の、世界の顛末が、初めから悲劇に至るものとして決定されていたとしたら? そして、その悲劇の理由も、誰かの気まぐれ、あるいは偶然の産物だったとしたら? だとしたら私たちの生も、最初から特に意味のない、努力しても変わらないものと言うことになります。では私たちは、何のために生きればいいというのでしょうか?

 もちろん、「生が決定されている」ということだけをもって、私たちの生が悲劇に覆われるわけではありません。神羅万象は全て、最初に設計されたとおりに動くだけの「時計仕掛けの宇宙」であると唱えたのはライプニッツですが、彼は同時に、その設計が神によるものであり、世界がこれ以上なく善なるものとなることを目的に設計されていると説きました。私たちの生の在り方はあらかじめ決定されているかもしれないが、その在り方は確かに「善」であり、その全てに意味が在るものとされたのです。

 しかしこの『アヴァロン・ル・フェ』の描く世界は、そんな楽観的な目的論をも排した、絶望的なものです。妖精は自らの「在り方」に縛られつつ、その中で自らの享楽のために生き、他人を蹴落とし、引っ張り合い生きている。その極北がモルガンの死です。モルガンはただひたすらにブリテンという地を愛し、ブリテン存続のために力を尽くしてきたわけですが、「存在税」といった手法も災いし、臣下からリンチを受けて息絶えてしまう。また、モルガンの退場後、ノクナレアの戴冠により実現するかに見えた平和も結局は崩壊し、ブリテンは再び疑念と憎悪に覆われた戦乱へと陥ります。この世界は俯瞰してみると、どうしようもなく愚かなのです。

モルガンの最後

 ゆえに、本作は「英雄譚」ではいられないのです。この世界のゆがんだ在り方は、妖精のサボタージュという何の意味のないものによって最初から決定づけられていて、英雄が世界を変える余地などない。仮に世界を変えられるとしても、この愚かな妖精に覆われた世界など、そもそも救う意味が在るというのか? ならば英雄としてこの世界を救うのではなく、むしろ魔王としてこの世界を滅亡させてしまったほうがいいのではないか? そんな引力に、物語は引かれていくようになるのです。

4. 「ゲームセット」を目指すということ

 では、このブリテンで生を受けてしまった妖精たちには、もはや生きる意味などないのでしょうか? あるいは、「英雄譚」が失墜した今、このFGO2部はどういう方向性で、物語を紡いでいくことができるのでしょうか?

 それを説明するのが、本ストーリー中盤の山場「ロストウィル」です。主人公は妖精騎士トリスタンの手で「自らがマスターとして用済みとなった世界」のビジョンを見させられ、発狂寸前まで追い込まれます。主人公は日本の普通の学生として生きていたのに、突然その全てを奪われ、人理修復という重い責任を背負わされました。そしてその責任を果たすべく、これまであまりにも多くの世界を滅ぼし、多くの生を踏み潰してきた。しかしその辛い、すぐにでも放棄したい役割が、今や全てを失った自分の支える唯一のアイデンティティになってしまっていることを、主人公はここで自覚するのです。そして彼は、辛いはずのその役割を放棄する(ゲームオーバー)のではなく、始まってしまった、舞い込んできてしまった自分の役割を果たしきる(ゲームセット)ことを、改めて決意することになります。

 ここで、上の決定論的な諦観が、既に主人公によって前向きに引き受けられていることがおわかりになるでしょうか。主人公が人理修復を背負ったのは、彼の自由意思によるものではありません。たまたま、彼が唯一生存したマスター候補になってしまったからです。彼は彼にとってどうしようもない事情により、「英雄」たることを決定づけられてしまったのです。(上記の「英雄のパラドックス」)

 だから主人公は、もうその「世界の決定」を受け入れるしかない。世界が自分にそれを求めるのならば、自分はそれを最後まで、できるだけ充実した形で、自分事としてやり切るのみだ。それが、この時計仕掛けの世界で、「一生懸命生きる」ということなのだ。そう、この作品は説くのです。

ロストウィル

 このテーゼは、アルトリアの最後の戦いにおいても反復されます。彼女は言います。彼女がその決定づけられた役割を果たすのは、自分のためでも、他人のためでも、正義のためでもない。そんな崇高な「戦う理由」なんて、私にはない。私が前に進むのは、ただ、遠くに見える星のためなのだと。

 ではその星とは何を意味するのか。それは思うに、彼女が自らの役目を受け入れ、それを放棄せずに最後まで自分なりにやり切ろうという、彼女なりの矜持のようなものだったのではないでしょうか。あるいは、その矜持を果たしたというだけでしか達成できない、特別な価値を意味したのではないでしょうか。この決定された世界で個人ができることは、その世界に与えられた自分の生を、自分なりに一生懸命やり切ること。自分の生という物語を、最後まで紡ぎきること。その1点のみであり、その1点こそが、この決定された世界で、何よりも尊いことなのです。

いつだって

5. 決定論的「戦い」観とその射程

5-1. FGO5章への1年以上越しの回答

 決定された世界で個人ができることは、その世界に与えられた自分の生を、一生懸命最後までやりきること。この決定論的な「戦い」観は、FGO5章が回答に窮した問題にも、遡って一応の答えを提示します。

 FGO2部のストーリーの急所の一つが、「自分の世界のために、他の世界を滅ぼしていいのか?」という問題でした。1章(アナスタシア)のクライマックスに始まり、主人公はそれぞれの異聞帯の住人と交流しながら、常にこの苦悩と抱えることになります。異聞帯攻略の過程で住人と仲良くなっていくが、最終的に自分はその住人全てを消滅させることになる。それをする権利が、本当に主人公にはあるのでしょうか?

 その苦悩は、FGO5章で頂点に達します。これまでの異聞帯は、人間が非人間的に管理されている、全体的に荒廃しているなど、どこか「行き詰まり」の感があるものばかりでした。ゆえに世界を消滅させることにもある種の「納得感」があったのですが、オリュンポスは、世界としてあまりにも「完璧」だったのです。人間は労働から解放され、長寿と幸福を享受しており、明らかに汎人類史より「優れた」世界が出来上がっている。さらには、キリシュタリアは不完全な汎人類史の克服のため、人類そのもののアップデートを企図していた。それをどうして滅ぼすのか、止めるというのか。そうゼウスから、キリシュタリアから問われ、主人公は有効な答えをついに提示することができなかったのです。

ゼウス

 これに対して上記の決定論的「戦い」観は、こう答えます。汎人類史と異聞帯が出会ってしまった以上、もう自分たちは戦うしかないのだと。双方が自らの存続を願って存在する以上、両者が戦い、そしていずれかが滅びることは、既に決定されていることのだと。そして人の生とは、決定された自らの役割を引き受けて一生懸命に果たすことにこそ意義があり、その役割をキリシュタリアという個人の判断で一変させてしまうのは、個人の領分を逸脱している(摂理に反している)と。そう回答を用意できるのです。この点でFGO6章は、そもそも回答を用意できなかった5章から、哲学的に一歩前進したということもできるのでしょう。

5-2. 決定論的「戦い」観のこれから

 とはいえ、それはあまりにもネガティブな世界観ではないか、と反論することも当然できると思います。個人の生の在り方は決定づけられていて、そのとおりにしか人は生きることはできないなんて、それはあまりにも希望がないのではないか。人には自由意思というものがあるし、人の力は、自らの生を、そして世界の行方を変えていけるはずだ。「英雄」は、確かに存在するはずだ。そのように考えることも、もちろん可能だと思うのです。

 あるいはこの決定論的な考え方は、現在隆盛を極めている「個人主義」、あるいは「個性主義」とも大いにバッティングします。「好きなことで、生きていく」というスローガンが広く支持を集めているように、旧来の価値観や世間の目にかまわず、「自分」を発揮して生きることを何より重要視するのが今の時代です。であるならば、「世界に在り方を決定づけられた自分」という考え方は、今の支配的な考え方に逆行しているとも見えます。

 しかし、私はFGO6章が見せたこの決定論的「戦い」観を、心の中で簡単に退けることができないのです。

 確かに、「自分の生は最初から決まっている」という決定論は、自分なりの自由意思を否定し、不安を催すものです。ですが、例えば今のコロナ禍ひとつをとっても、「自分らしく生きていく」というテーゼだけで、望ましい生き方を手に入れることができるのかというと、私はそうは思いません。昨年に比べ自粛ムードも薄くなり、自分の思うように外出をする姿勢がだんだんと広まってきている昨今ですが、その結果やはり感染状況は爆発的と言っていいものになり、先が見えないようになっている。といって、完全自粛を人々に求め続けるのも、私は非現実的なことだと思います。完全自粛というのは、つまり感染の存在を「異常」と認識し、その「異常」の完全な排除を目指すものですが、ワクチンでも感染自体は抑えられそうもないウイルスをいつまでも「異常」としてとらえるのは、もはや認識の仕方として逆に無理があるものになってきていると思うのです。

 ではどうすればいいのかというと、私たちは、新型コロナウイルスに対して、その怖さから目を背けるのではなく、それを特殊な「異常」としてとらえるのでもなく、当たり前のように常にそこに在り、私たちの生に影響を与えるものとして、とらえなおすべきなのだと思います。新型コロナウイルスで自分の生が変わってしまうこと、これはもう仕方がない。そういうものとして、自分の生を引き受けるしかないのだと思います。

 すると次の問題は、そのコロナで決定づけられてしまう自分の生を、それでもいかに紡いでいくか、彩っていくかということになります。コロナから目を背けて好き放題やるのでも、コロナを排除するために人の生をひたすら抑圧するのでもなく、変わってしまった生を、それでも自分にとって意味のあるものとしてとらえられるように、進めていくしかない。より実践的に言うならば、例えば人と直接接さずにできることに、何らかの生きがいを新たに見出していくしかない。人と接触することでしか得られない何かがあるならば、感染して健康を損なうリスクと、人と接触しないことで損なわれる生活の質のバランスを、自分なりに取っていくしかない。どこまでリスクをとり、どこまでリターンをとるか、その最適解を自分で探っていくしかいないのです。そしてそれが、「生が世界によって決定されつつも、その中で自分の生を一生懸命紡いでいく」ことなのだとしたら、FGO6章が見せた決定論的「戦い」観は、むしろこの危機の時代において、有効な答えにつながる新しいテーゼとすらなりえるのではないでしょうか?

 その予感を補強するものとしてここで挙げておきたいのが、つい先日完結した『進撃の巨人』の最後のエピソードです。(ここから進撃のネタバレありです)

 『進撃の巨人』はご存知のとおり、理不尽に人類を蹂躙する巨人がいる世界で、エレンたちが巨人に抗う物語です。そこで紡がれるのは、シンプルで力強い、「個人主義による世界の理不尽さへの抵抗」でした。エレンは「オレがこの世に生まれたから」、壁の外の世界を目指す。クリスタは「自分」を殺さないために、エルヴィンは自分の知的好奇心を満たすために、ともすると壁の中の人類を危機に追いやりかねない選択をしてしまう。この個人の力ではどうにもならない世界で何より輝くのは、個人がその個人らしく生きようとする意志である。そのように説く『進撃の巨人』の物語は上記の「個人主義」にまさに合致するものであり、そういう意味でも、本作は時代の寵児であると言えるのでしょう。

 しかし本作の最後のエピソードでは、エレンの最終盤の行動が、エレンの自由意思によるものではなく、「進撃の巨人」の能力で見た特定の未来への道筋をなぞったものであったことが明らかになるのです。これまで強く「自分らしさ」を重視してきた物語が、最後に主人公を「決定された未来」に捧げてしまう。主人公が、示された特定の善き未来のための一つの礎石として、世界に吸収されていく。個性主義を牽引してきた本作が最後に見せたこの展開に私は、何か「自分らしさ」に対する、やがて来る根本的な考え方の修正を予感してしまうのです。

 決定された世界で個人ができることは、その世界に与えられた自分の生を、一生懸命最後までやりきること。FGO6章が見出したそんな決定論的な「戦い」観は、やはり弱気なものとして退けられるのか。それとも、今後この危機の時代を生き抜くための哲学として広く採用され、「英雄」の概念は賞味期限切れになってしまうのか(既にマンガ界ではアンチヒーローものが流行しつつある)。

 その明確な答えを待つには、もう数年ばかり、社会を、そして物語を追っていく必要があるのでしょう。


(おわり)

P.S.

上記の「ゼウス、キリシュタリアへの回答」については、5章の感想記事でさらに詳しく書いております。ご興味ございましたらぜひに。


 


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