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「アンチヒーロー」はどこから来て、どこへ行くのか? ~陽のアンチヒーロー、陰のアンチヒーロー~

※サムネは左から『イビルヒーローズ』1巻表紙、『僕のヒーローアカデミア』31巻表紙、『戦隊大失格』1巻表紙。

※本記事は『僕のヒーローアカデミア』単行本ネタバレ+ジャンプ本誌の軽度なネタバレを含みます。

 最近、アンチヒーローものをよく見ますよね。週刊少年マガジンで2021年春に『戦隊大失格』、夏に『英戦のラブロック』が連載開始。その直後に週刊ヤングジャンプで『イビルヒーローズ』が連載開始。この立て続けのアンチヒーロー連載開始はマンガファン界隈で話題になりました。あるいはアニメでも、最近だと『竜とそばかすの姫』が強くアンチヒーローを押し出す物語になっていたと思います。

 この「アンチヒーロー」というのは、よく似た「ダークヒーロー」とはおそらく違う概念です。ダークヒーローとは、悪者なんだけど別の見方をすれば実は良いことをしている、あるいはそうでなくとも強い魅力がある、そんなキャラを指す言葉だと思います。それが描いているのは、あくまで魅力的な「ヒーロー」なのです。例えば『DEATH NOTE』、あるいは『ルパン3世』はこのカテゴリーでしょうか。

 「アンチヒーロー」はそうではなく、「ヒーロー」という概念そのものを否定しようとする作品です。例えば「アンチヒーロー」の常套手段として、「いわゆるヒーロー」なモチーフを、そのまま敵キャラとして据えるというのがあります。例えば『戦隊大失格』は、戦隊ものを思わせる5人のヒーローが実は邪悪な組織であり、それにモブ怪人が反旗を翻すというお話になっている。あるいは『英戦のラブロック』『イビルヒーローズ』は、アメリカンヒーローを思わせる意匠の「ヒーロー」がやはり裏では悪行を重ねており、これを主人公が懲らしめていくというストーリーになっている。どちらも、いわゆる「ヒーロー」な意匠を敵キャラに配置することで、「ヒーロー」を否定しようとするのです。ヒーロー嫌悪すら感じる、皮肉の利いたやり方だと思います。

 そんな強い感情すら感じさせる「アンチヒーロー」は、いったいどこからやってきて、このような盛り上がりを見せているのでしょうか? そしてその流行は、今後どこへ向かっていくのでしょうか?

1. 「アンチヒーロー」はどこから来たのか

 まず一つ目の問題。「アンチヒーロー」はどこから来たのか。

 これに対する答えは一つじゃないと思います。海外ドラマ『ザ・ボーイズ』の影響。ヒーロー支配への反逆のカタルシス。クズなヒーローを懲らしめる勧善懲悪的な気持ちよさ。唯一絶対の正義なんてない、という今風の価値観。ネットでよく見る「正義の暴走」というイメージ。あるいは、自分を救ってくれる英雄なんて夢も見れない、今の世の中の閉塞感。たぶんどれも正解であり、そういったものがいろいろ重なって「ヒーローの否定」の土壌になっているのだと思います。


 その上で、この「アンチヒーローの出所」を考えるにあたり個人的に外せない作品があります。現代マンガにおけるヒーローものの頂点、『僕のヒーローアカデミア』です。

 『僕のヒーローアカデミア』は2014年に週刊少年ジャンプで連載を開始。誰もが「個性」なる特殊能力を持ち、優れた特殊能力を持つ者が「ヒーロー」として治安維持にあたる世界で、無個性の少年デクくんがヒーローを目指すお話です。デクくんの憧れのヒーロー「オールマイト」のビジュアルや、連載開始当時話題になったそのアメコミ風の表現からもわかるように、本作はまさに「王道ヒーローもの」と言えるものです。

 しかし本作は中盤に差し掛かると、その物語を反転させます。ヒーローとヴィランの関係性を揺るがすいくつかの大事件が起こった末に、作中世界におけるヒーローへの信頼が失墜。ヒーローは人々を守り切ることができず、そして人々がヒーローを否定するさまが描写されるようになり、正統派ヒーローものだった本作は、まさに「アンチヒーロー」ものへと堕ちることになるのです。

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『僕のヒーローアカデミア』311話 

 

 そんな本作の転身にはそれなりの理由がいるわけで、本作が「アンチヒーロー」に堕ちるその過程では、この作品がなぜアンチヒーローを提示しなければならなくなったのか、その根拠となるエピソードが様々に挿入されていきます。ここで面白いのは、その中でも最も大きなものと言える2つのエピソードが、ある仕方で非常に似通ったものになっていることです。

 一つは、死柄木弔という男の過去のお話。ヴィランのリーダーであり本作のラスボスである彼は、もともと純粋にヒーローに憧れる少年でした。しかし、彼は家庭でヒーローの話をするのを固く禁じられており、ヒーローへの憧れを表明するたびに、彼は親から虐待といっていい扱いを受けていたのです。そしてその我慢の限界を超えた時、彼は「個性」を発現させ、味方だった姉も含めて無意識に家族全員を殺害。子供でありながら天涯孤独となり、困窮にあえぎながら街を放浪する身となるのです。

 なぜ彼は家庭でヒーローの話をするのを禁じられていたのか。それは彼の父が、デクの能力「ワン・フォー・オール」の先々代保持者、志村菜奈の実子であり、そして彼女から里子に出された子であったためです。菜奈が彼の育児をせず彼を里子に出したのは、彼女がヒーローであり、ヒーローとして生きるがゆえに母として生きる時間がなかったから。しかしそれはその子にとっては、母によって生まれ出たにも拘わらず、母の身勝手により母の愛を受けることができなかったことと同義です。言い換えるならば、彼からすると、彼は母に捨てられてしまったも同然である。だからこそ彼はヒーローという存在を憎み、弔にヒーローへの憧れを禁じていたのです。

 もう一つは、エンデヴァーの家族のエピソードです。彼はNo.1ヒーローであるオールマイトへの劣等感から、自らの子供をオールマイト以上のヒーローにすることに執着します。そして炎の能力を氷の能力を併せ持つ焦凍が生まれますが、焦凍への過酷な教育は焦凍と妻を苦しめ、彼と家族との関係は家庭崩壊と言っていい状態に陥っていました。

 それに追い打ちをかけるように終盤で明らかになるのが、ヴィランの主要人物である荼毘が、死んだはずの焦凍の兄、燈矢であったことです。燈矢はエンデヴァーの第一子として生まれますが、ヒーローとしての「個性」に恵まれませんでした。そして優れた才能を持つ焦凍が生まれた後は、ますます父から見放されることになります。その中で彼は、父に自らの才能を示すために出した炎に自らの身を焼かれ、そのまま家族からは死んだものとされていたのです。

 本作が「王道ヒーロー譚」から「アンチヒーロー」に堕ちる過程で描かれる、この2つのエピソードに共通すること。それは、本当に救われるべき弱者が、ヒーローに救われないまま見捨てられていくことです。いやそれどころか、弱者を救うべきヒーローが、逆に誰からも救われない弱者を生み出していることです。弔が家族を殺し孤独と困窮に陥った遠因は、菜奈がヒーローであったこと。荼毘の孤独の原因は、エンデヴァーの「No.1ヒーロー」という地位への執着。ともに、ヒーローがいたからこそ、誰にも救われない者たちが現れている。この現実を梃子にして、『僕のヒーローアカデミア』は「アンチヒーロー」へと舵を切るのです。

 ヒーローがいるからこそ、弱者が現れる。これは「アンチヒーローもの」の中でも結構踏み込んだ描写だと思います。例えば映画『ジョーカー』は、社会的弱者だった男がヴィランへと堕ちる過程を描いており、「ヒーロー=正義、ヴィラン=悪」という単純な二元論に一石を投じる作品になっています。しかし、それはあくまで一人の男が社会的苦難と貧困の果てにヴィランとなる悲劇を描くのみであり、その転落に対し、ヒーローが1枚嚙んでいるわけではありません。あるいは『英戦のラブロック』『イビルヒーローズ』についても、ヒーローが一般人に害を与える描写はある一方、ヒーローの存在そのものが弱者を生んでいる、という因果関係は描かれていない。しかしヒロアカはそこからさらに進んで、「ヒーローのせいで、弱者が発生した」というところまで描いていく。ここにヒロアカの「アンチヒーローもの」としての特徴があり、そしてその描写は、そのままヒーロー嫌悪の燃料になっていくわけです。

2. 「アンチヒーロー」はどこへ行くのか

 しかしこの「ヒーローのせいで、弱者が発生した」という描写は、「ヒーロー嫌悪」のガソリンになっている以外にもう一つ、「アンチヒーロー」において重要な役回りを果たしているように思います。

 その役割とは、ヒーローと人々との関係を、「格差」関係にしてしまうことです。

 正統派ヒーローものは、正統派であるがゆえ、「ヒーローが人々を救う存在であること」に何の疑義も示しません。これは言い換えると、正統派ヒーローものはヒーローを「他を救うべき圧倒的強者」、人々を「他から救われるべき弱者」という位置に固定させているということを意味します。そしてその立場の違いを何ら問題視することもないわけです。

 しかし「ヒーローのせいで、弱者が発生した」作品では、ヒーローと人々はその地位がトレードオフになっており、すなわち「勝者」と「敗者」になっている。ゆえにそこには、正統派ヒーローものでは当たり前だったはずの両者の立場の差を、悪しきものとして問題視する視点が生まれます。ヒーローと人々の関係性は、「弱者を救済する美談」から、「是正されるべき格差」へと変質するのです。

 では、ヒーローと人々の格差を是正するには、どうすればよいのか。まずは、ヒーローと人々の差をなくすべく、ヒーローを懲らしめて人々のところまで引きずり下ろすというのが一つ。これはまさに今「アンチヒーロー」がやっていることであり、現在の「アンチヒーロー」流行の内実の、一側面なのだと思います。世界に目を向けて見れば、米国のトランプ大統領の誕生など、エリート嫌悪を原動力にしたポピュリズムの現象が大きく広がっていますが、これと同じ文脈の現象が起きているわけです。いわば「アンチヒーロー」流行とは、日本風のポピュリズムなのかもしれません。

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『英戦のラブロック』1話見開き。「階級突破」との文言が印象的。 

しかしそうした文脈による「アンチヒーロー」(以下「ポピュリズム的アンチヒーロー」と呼称します)は、ポピュリズムが得てしてそうであるように、どうしても「衆愚」のイメージをまとってしまいます。愚かな民衆が、物事の本質を見誤って暴走しているというイメージです。例えばヒロアカでも、遠いところから好き勝手にヒーローに文句を、中傷を投げつける民衆の姿が反復されて描かれていくわけですが、まさにこの描写はその「衆愚」のイメージをとらえたものです。

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『僕のヒーローアカデミア』306話

 そして都合の悪いことに、その「衆愚」は、ヒーローを否定している点で、アンチヒーローものを好んで読む読者の姿とも重なってくる。だから、ポピュリズム的アンチヒーローと表裏一体である「衆愚」のイメージが隠しきれずに作品に可視化されてしまうと、それは「読者批判」の物語になってしまう。読者を楽しませるはずのエンターテインメントが、自己瓦解をきたしてしまうわけです。

 そこで、ヒーローと人々という格差を是正する、もう一つの方法があります。それは上記とは逆に、人々をヒーローの地位へと押し上げることです。つまり、「みんながヒーローになれる」、「誰もがヒーローなんだよ」という言説で、ヒーローの概念を作り変えることです。

 この言説の主張するところは、すなわちこうです。ヒーローとは人を助ける存在である。ならば、みんなが周りの人を助けることができるようになれば、それはみんながヒーローだということであり、ヒーローと人々との区別なんてなくなるのではないか、と。だから私たちは周りの人々に手を差し伸べなければならない、と。これは道徳として素晴らしい主張だと思いますし、理屈としても「ヒーローと人の格差」を治癒できます。一時はポピュリズム的アンチヒーローの闇に飲まれたヒロアカも、今この方向でその闇を切り拓こうと、もがいています。

 しかしながら、ヒーローというのは本当に「人を助ける存在」でしかないのでしょうか? ヒーロー=英雄の字義を調べてみても、「知力や才能、または胆力、武勇などに特にすぐれていること」(精選版 日本国語大辞典)とある。「ヒーロー」という言葉は、「特にすぐれている」という、比較級的な意味を本来的に含んでいるのです。本質的に、他人との格差を含んでいるのです。

 だとすれば、「みんながヒーローなんだよ」という格差是正のためのヒーロー言説は、これもまた一つの「アンチヒーロー」であるのではないでしょうか? ヒーローの本質たる「格差」を否定しているのですから。言い換えるならば、「誰かを特別に英雄視することの否定」をしているのです。

 そしてこの一見希望にあふれているように見える「みんながヒーローなんだよ」的アンチヒーローの意味するところの射程って、結構やっかいだと思うのです。例えばこのSNS全盛期、みんななんとか目立ってやろうとTikTokでちょっと目を引く動画を挙げて見たり、YouTuberを始めて見たり、この私のようにブログなんて書いてやろうと思うわけですが、格差否定に立脚した「みんながヒーローなんだよ」的アンチヒーローは、そうした承認欲求・傑出欲望の否定、という話にもつながっていくでしょう。あるいは、一部オンラインサロンのような個人崇拝、もっとカジュアルなところだとアイドルのような「推しへの崇拝」の批判にも、もしかしたらつながっていくのかもしれません。それらはまさに、特定の個人の英雄視を前提としているのですから。

 だから、ポピュリズム的アンチヒーローとは別の「陽」のアンチヒーローも、この現代において多くの敵対勢力を抱えているのです。

 そういうところまで考えてみると、今後の「アンチヒーロー」の行方ってなかなか興味深いと思うのです。冒頭に挙げた『英戦のラブロック』『イビルヒーローズ』はヒーロー嫌悪のニュアンスを露わにしており、「ポピュリズム的アンチヒーロー」の感が強いわけですが、こうした闇の側面が強まるのは、あまりサブカル環境として気持ちのいいものではありません。また、「衆愚」イメージによる自己瓦解のリスクも抱えています。

 一方「みんながヒーローなんだよ」的アンチヒーローは一見気持ちのいいものですが、いざその議論を発展させようとすると、現代の読者らに広く浸透している承認欲求・傑出欲望、あるいは「推し」思想と衝突するところが出てきてしまう。「みんながヒーローなんだよ」的アンチヒーローがそれを超えてさらなる広がりを見せるには、「人から傑出しなくても人は価値ある存在になれる」、あるいは「人は傑出した存在に関わること以外によっても、生に意味を見出せる」という、傑出欲望・「推し」思想の積極的超克の物語(「誇り高きモブ」という可能性の提示?)が必要になってくるでしょう。(最近ヒロアカと同じ週刊少年ジャンプが、あらゆる作品で「モブ」を演じるおじさんをメタ的に描いた『プロモブ』、あるいは負けヒロインの輝きを描いた『失恋ビギニング』といった読み切りを掲載していることには、そういった文脈から何か感じるところがあります。)

 そのようにそれぞれ強みと弱みがある中で、「アンチヒーロー」はどちらの方向でこの先その勢力を伸ばしていくのか。ポピュリズム的アンチヒーローがまだまだ燃え上がるのか。「みんながヒーローなんだよ」的アンチヒーローが現代の傑出欲望・「推し」思想を打ち負かす、あるいはそれらの主流思想と何らかの形で和解して存続するのか。はたまた、「アンチヒーロー」の流行自体止まってしまうのか。そんな視点でアニメやマンガに触れてみるのもおもしろいかもしれない、と思う今日この頃です。
 


(おわり)

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