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【レビュー】『葬送のフリーレン』~「ポスト勇者」時代の勇者の物語~

※ サムネは『葬送のフリーレン』1巻単行本より

 2021年も終わりですね。今年はみなさんどんな一年でしたでしょうか?

 今年はあまりマンガの新規開拓ができず、個人的にはその意味で心残りのある1年でした。しかし逆に言えば、続刊を読んでるだけでそこそこ充実したマンガライフを過ごせた、ということなのかもしれません。

 ではその続刊シリーズの中で一番印象に残ったマンガは何か。めちゃくちゃ難しいんですが、一つに絞るならば『葬送のフリーレン』だと思います。

 本作は2020年4月に週刊少年サンデーで連載開始後、すぐに話題を席巻。既刊3巻だった2020年末に「このマンガがすごい!2021」で2位を取ったと思えば、直後の「マンガ大賞2021」で見事大賞を受賞。そして既刊6巻の2021年11月時点で、累計発行部数は450万部を突破。そのスピードヒットには目を見張るばかりです。

 こちらどんな作品なのかといいますと、ジャンルとしては「異世界もの」の一つです。「中世ヨーロッパのような土地で、『ドラゴン=クエスト』のように勇者が仲間と魔王を倒す世界観」でまとめられるこのジャンルは現在隆盛を極めていますが、その中でもこの作品はかなり異色だと思います。なぜなら、「転生」もしない「無双」もしない、それだけでなく、そもそも魔王を倒したところから、物語が始まるのですから。以下、簡単な第1話のあらすじとリンクです。

第1話あらすじ(Wikipediaより)
魔王を倒して王都に凱旋した勇者ヒンメル、僧侶ハイター、戦士アイゼン、魔法使いフリーレンの勇者パーティ4人。10年間もの旅路を終え、感慨にふける彼らだが、1000年は軽く生きる長命種のエルフであるフリーレンにとっては、その旅はとても短いものであった。そして50年に一度降るという「エーラ流星」を見た4人は、次回もそれを見る約束をしてパーティを解散する。 50年後、すっかり年老いたヒンメルと再会したフリーレンは、ハイターやアイゼンとも連れ立って再び流星群を観賞する。その後にヒンメルは亡くなるも、彼の葬儀でフリーレンは自分がヒンメルについて何も知らず、知ろうともしなかったことに気付いて涙する。その悲しみに困惑した彼女は、人間を”知る”旅に出るのだった。

 

 このように本作は、勇者が魔王を倒すのではなく、その旅路を、勇者に先立たれたエルフの魔法使いが再び辿っていく。そうして、彼女が勇者を本当の意味で「葬送」していく。そんな物語なのです。

1.勇者ヒンメルの生き様

 長命種が命短き者と関係を結んでしまい、早すぎる別れを迎えてしまう。その出会いは幸せだったのか、それとも悲しみが約束されている以上、そもそも出会わないほうがよかったのか。

 以上のあらすじを読んだ方は、そんな物語の王道とも言えるテーゼを連想された方も多いでしょう。実際、この問題意識から『さよならの朝に約束の花をかざろう』(2018、岡田麿里監督)といった多くの名作が生まれていますし、この『葬送のフリーレン』も、当然そういうテーゼをはらんだ作品ではあります。

 しかし、この作品の核心は少し異なるところにあります。本作がクローズアップするのは、フリーレンの勇者との別離の悲しみではなく、むしろフリーレンが辿っていく勇者ヒンメルという男の人生、その生き様です。

 ここで問いたいのですが、異世界もののフォーマットにおいて、「勇者」の価値とは何だと思いますか? それは間違いなく、「魔王を打倒できること」です。魔王を倒せるからこそ、その者は異世界ものの主人公たる「勇者」になれるのですし、魔王を倒せないのであれば、その者に主人公たる権利はないのです。

 しかしながら、この作品はヒンメルの人生を描くにあたり、ヒンメルがいかに魔王を倒せる力を手に入れるに至ったか、いかに「勇者」たりえたかというエピソードを、全くといっていいほど挿入しません。代わりに描かれるのは、ヒンメルがその旅路において、いかに「その旅路をとにかく楽しむこと」を大事にしていたか。そして旅路の中で、いかに「人助け」を大事にしていたか。そんなことを示すエピソードばかりなのです。

 例えば彼はダンジョン探索では、ダンジョン制覇にたとえ必要がなくとも、ダンジョンを楽しむために必ず全ての道を通ろうとします。あるいは、フリーレンが収集する、戦いには何の役にも立たない魔法(かき氷を出す魔法など)ではしゃいで過ごしたりする。彼はこう言うのです。

6巻15P

『葬送のフリーレン』6巻  P. 15

 あるいは、彼は少々遠回りでも、いつも人助けをしながら旅路を進みます。それはもちろん彼の「他人を救いたい」という思いやりであり、その延長線上に「魔王を倒す」という戦いがあるわけですが、彼は人助けの理由を問われると、こうも言うのです。

5巻184P

『葬送のフリーレン』5巻  P. 184

 しまいには、「本物の勇者」しか抜けないとされる、石に刺さった「勇者の剣」をヒンメルは抜けなかった、なんてエピソードまで挿入されます。そして、魔王を倒せば偽物だろうが本物だろうが関係ない、とヒンメルは言い放つのです。

 そして、フリーレンはヒンメルの旅路を辿る中で、その必ずしも「魔王を倒す」というところには直結しない生き方が、様々なところで実を結んでいることを発見していくのです。かつてヒンメルと訪ねて人助けをした村で、ヒンメルがまだ村人に覚えていてもらっていて、勇者をたたえるささやかな祭りが開かれるようになっている。あるいは、フリーレンもヒンメルと同じように「自分が好きだから」という理由だけで、「服が透けて見える魔法」だとか、そういうどうでもいい魔法が書かれた魔導書を集めていく。ヒンメルの人生は「魔王を倒したから」価値があるのではなく、そういう小さくて、ともするとくだらない断片一つ一つに価値があったことを、フリーレンは確かめていくのです。

2.「ポスト勇者」時代の勇者の物語

 私はそういうお話を、他でもない「勇者パーティ」が紡ぐことに大きな意義というか、「赦し」の感覚を覚えます。なぜならその描写は、王道たる「勇者」賛美の物語がはらむ危うさ、すなわち「勇者のように偉業を成し遂げなければ、その人生に大きな価値はないのではないか?」という疑念を、上書きしてくれるからです。

 「何をもって価値ある人生とするか?」というのは、結構複雑な問題です。例えば、異世界ものの主なモデルであろう中世ヨーロッパを例に挙げますと、この世界で「勇者」に近いのは、他国との戦争で活躍した「騎士」だとか、そういう存在でしょう。しかし、騎士にはなれない農民の人生は常に価値がないものとされたのか、彼らは常にアイデンティティークライシスに陥っていたのかというと、そうでもないかもしれません。なぜなら、農民が騎士になれないのは、農民の人間性や能力が劣っているからではなく、厳格な身分制によるところが大きかったからです。自分が騎士にはなれないのは、自分の内面に価値がないからではなく、たまたま農民に生まれてしまったからというだけ。逆に、騎士が騎士になれるのは、彼らの内面に価値があるからではなく、彼らがたまたま貴族階級に生まれたからというだけ。とするならば、農民にとって「英雄になれない」ことと、「自分の人生に価値がない」ことは、必ずしも直結しなかったのではないでしょうか。

 もっと卑近な例を出すと、昭和のモーレツ労働時代。男性はひたすら会社で労働することを要請され、そうすることで彼らは終身雇用を保証され、かつ「一人前に生きている」という栄誉を得られる。女性は家に入り家事や子育てに身を捧げることで、「一人前に生きている」という栄誉を得られる。「価値がある」とされる生き方が明確で、かつその生き方を手に入れることが多くの市民にとって可能であったので、「自分の人生に価値はないのでは」という疑念は、その点では(存在こそすれ)顕在化しにくい時代だったのだと思います。

 一方、現代はどうでしょうか。昭和のそのような考え方は(一部残ってはいるものの)排斥されつつあり、どのような人生を価値あるものとするか、その価値観は多様になりつつある。また、SNSやYouTubeを通して頭角を現しその名を轟かせることも可能になるなど、「勇者」あるいは「英雄」への道も、より幅広い人々に対して開かれるようになった。その点で、上記の2つの時代より、自由でよい時代になったのだと思います。

 しかし、その自由さは、その自由さにもかかわらず「英雄」になれなかった者を、かえって絶望に落としてしまう、というのもまた事実なのではないでしょうか。「価値」は一つじゃないし、自由に選ぶことができる。そして、その「価値」を手に入れさえすれば、英雄になる途はたくさん拓かれている。そして実際ネットを見れば、多くの人とつながれる分、大きな成功をして名声を得たり、大きな富を築いていたりしている人がいくらでも目に入る。にもかかわらず、自分は「英雄」になれていない。ということは、自分はそれだけお膳立てされても英雄にはなれないほどに、価値がない人間なのではないか。どうしようもない人間なのではないか。そんな事実に、多くの人々が直面しているのではないでしょうか。何者かになりたいが、何者にもなれない。「英雄になれない」ことと、「自分の人生に価値がない」ことが、直結しうる時代なのです。

 だから、「英雄」にはなれない現代の私たちの大多数は、「英雄」を目指す気持ちを持ちながらも、同時に必要としていると思うのです。英雄になれなくても、自分の生には価値があったと思える途を。魔王を倒せなくても自分の生には意味があったと思える、「勇者」ではない生き方を。

 そういう意味で、この時代は「ポスト勇者」の時代なのだと思います。

 するとこの『葬送のフリーレン』という物語は、まさにこの「ポスト勇者」の時代に要請された、勇者の物語であるのではないでしょうか。確かにヒンメルは「魔王を倒した勇者」ですが、彼の生の核心は、その偉業にはない。彼は何より旅の楽しさを重視していた。あるいは、この世に広く名を轟かせることではなく、小さな人助けを通して、出会った人一人一人に自分のことを覚えてもらうことを願っていた。そして、出会った人に自分のことを覚えてもらうには、魔王を倒すなんて偉業は必要ない。その人の人生を、ほんの少しでいいから変えてあげればいい。きっとそれだけで十分なのです。

5巻185P

『葬送のフリーレン』5巻  P. 185 

 また、フリーレンもずっと「好きな魔法を探すこと」を大切にして生きています。むしろそういう姿勢だからこそ、「好きな魔法を探すこと」に集中できる平和な世の中を求めることができる。それが、魔王の打倒にもつながる。そんなことを本作は説いていくのです。生の価値は、偉業や名声で決まるわけではない。あなたがよいと思うものを追求することができれば、あなたが身近な人を支えることができれば、それでその生は、とても素晴らしいものになるのです。

 とはいえ、そのような目立った「偉業」、そして「名声」に支えられない生き方は、自分がどれだけそれを価値あるものだと思っていても、心が弱ってしまった時には、それを心もとなく感じてしまうこともあるかもしれません。この生き方は、ただの自己満足でしかないのではないか。結局自分はこの世界で何も成し遂げられていないのではないか。そんな不安が心を覆ってしまうこともあるでしょう。

 だからこの作品は、上記のヒンメルやフリーレンの生き方に並んで、「誰かに褒めてもらう」ということも、とても印象的に描いていきます。フリーレンは、後にフリーレンの弟子となるフェルンを一人で育てたかつての仲間、ハイターを見て、彼が誰からもその生き方の価値を認めてもらっていないことに気づき、彼を褒めます。あるいは、仲間の喧嘩を仲介してくれた、自分のことを大人だとは思っていない仲間ザインを、「ザインはちゃんと大人やれていると思うよ」と褒めます。

 しかし、そんな褒めてくれる存在が身近にいないこともあるでしょう。本作はそんな人のことも考えてか、作中の宗教、すなわち「女神様がいて、いい人生を送った人は天国に行かせてくれる」という信仰の存在を、繰り返し描いていきます。たとえ誰かが褒めてくれなくても、女神様は見てくれている。そして天国へ行ける。だから、自分はこの生き方ができる。そんなはかない、しかし切実で、そして大事な信仰です。

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『葬送のフリーレン』4巻  P. 38

 こうして、「偉業」にも「名声」にも支えられない、「勇者」ではない生き方の途を、『葬送のフリーレン』は丁寧に模索していくのです。本作は、「ポスト勇者」時代に生まれた、勇者たちの物語なのです。

3.フリーレンという視点

 また、そうした人間の小さな、しかし確かな価値の模索をより印象的なものにさせているのが、本作の視点をフリーレンという長寿の存在に置いていることです。

 昔『ゾウの時間 ネズミの時間』という本がありました。動物によってその寿命は違うが、生涯に心臓が脈打つ回数は変わらない。寿命が短いと生の内容も乏しいとは限らず、ゾウはゾウの、ネズミはネズミの時間感覚があるのではないか。そんなことを論じた本です。
 
 これと同じように、1000年以上生きるフリーレンの時間感覚と、100年生きたら上等である人間の時間感覚には、やはり大きな違いがあります。ヒンメルたちとの10年の旅路も、ヒンメルたちにとっては大きなものでしたが、フリーレンにとっては一瞬です。だからこそフリーレンは、ヒンメルとの10年間に詰まっていたものの大きさに、ヒンメルの死後ようやく気付きます。そしてヒンメルを、人間を「再発見」する旅に出るのです。

2巻12P

『葬送のフリーレン』2巻  P. 12

 だからこの物語の視点は、必然的に「生の短いちっぽけな人間にどのような価値があるのか?」という視座になっていきます。そしてその視座は、「勇者になれない人間にどのような価値を見いだせるのか」という「ポスト勇者」時代の視点に、極めて親和性が高い。実際フリーレンはこの旅を通して、短い生を終えてしまったヒンメルの痕跡を、彼のはかない生の価値を確かめていきますが、そのそれぞれが、上記で述べたような「ポスト勇者」の価値に結びついていきます。

 例えば、ヒンメルが救った子供はおじいちゃんおばあちゃんになっているけれど、確かにヒンメルを覚えている。ヒンメルが見せたいと言っていた景色は、新しい仲間と見て、その仲間が笑っていたからいい体験になった。かつての仲間ハイター、アイゼンそれぞれが育てたフェルン、シュタルクと旅をすることで、既に別れてしまった彼らの息遣いを感じることができる。どれも、生の短いちっぽけな人間が残してくれた価値です。そして、ちっぽけだからこそ、「勇者」でない私たちが広く共有できる、しかしとても大切で尊い、「ポスト勇者」の価値なのです。

 『葬送のフリーレン』は、異世界ものの世界から、現代の私たちの生き方を包み込んでくれる作品です。ぜひ、手に取ってみてください。


(終わり)

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