『聲の形』はなぜ「生きるのを手伝ってほしい」なのか
「アニメ化に恵まれたマンガ」といえばなんでしょう?
答えは千差万別ですが、私はそんなマンガの一つとして「聲の形」を推したいです。
本作は、耳の聞こえない女の子西宮さんと、彼女のことを小学校のころいじめていた男の子石田君が高校生になって再会し、ぎこちのない、しかし誠実さに溢れた交流を織りなす物語です。
マンガ原作のすばらしさは論を待ちませんが、2016年に京都アニメーションが作成したアニメ映画も、非常に素晴らしい出来なんです。
同じ年に『君の名は。』、そして『この世界の片隅に』という時代を代表する傑作アニメ映画が立て続けに公開された伝説の年ということもありその陰に埋もれがちなのですが、全7巻ある原作を大胆にカットしつつ、その本質をとらえた映像化に、匠の業を感じずにはいられません。
そんなこの作品の、アニメ、そして映画双方がクライマックスに位置づけたシーンで、石田君は西宮さんにこんなことを言います。
でも、不思議ですよね。
これが恋愛作品なら、「愛してます」でもいい。
耳の不自由な方の生き方をテーマの作品であるなら、それに関わるセリフでもいい。
しかしそこが、「生きるのを手伝ってほしい」なのです。
「生きる」なんて、それこそこの世に存在している時点で私たち全員ができている、ひどく当たり前なことです。それを「手伝ってほしい」とはどういうことなのでしょうか。
私はこのセリフにこそ、西宮さんと石田君、その2人の関係性の本質が隠れている気がしてやまないのです。
そんな話をさせてください。
1. 2人の抱える問題の性質
「生きるのを手伝ってほしい」とはどういう意味なのか。
これを考えるのに大きなヒントになるのが、最後まで西宮さんとソリが合わなかった、植野さんです。
かわいいですね。
植野さんの考え方を一番理解できるのは、西宮さんとの観覧車での会話内容でしょう。
植野さんも小学生の頃石田くん同様西宮さんにきつくあたっていましたが、このあたりを読むと、小学生の頃の石田くんと違って、植野さんには西宮さんへの対応の背景に一定の哲学があったことが伺えます。
なんでもズケズケ言うタイプの植野さんにとって、西宮さんは、耳が不自由だから付き合いにくいのではない。他人からどれだけきつく当たられてもヘラヘラ謝り、しかも自分から何の意思も示してこない点に、強い違和感を感じていたのです。
植野さんのズケズケぶりも少し行き過ぎ感がありますが、ひとまずここに西宮さんの抱える問題の本質を見ることができます。彼女は、ただただ自らの存在・意思を蔑ろにし、外からのメッセージに流されるだけなのです。
次に石田くん。
石田くんの抱える問題は、周りの人間の顔に貼られている×マークが全てでしょう。
高校生になった彼は基本的にいい人です。西宮さんにおそるおそる近づいていく様や、長束くんとの付き合い方には、他人への配慮にあふれています。
しかしそれはあくまで、西宮さんがかつて「自分」が被害を加えてしまった相手であり、そして長塚君が「自分」を積極的に受け入れてくれる相手であるからに過ぎません。「自分」というワードが、彼の行動の基礎にあります。
つまり、基本的に彼は「他人」本位の行動をしません。「自分」が○○だから。「自分」を○○してくれるから。「自分」というものだけを出発点にして、行動しているんです。「他人」についての情報は基本的にシャットアウトしており、それゆえの×マークです。
以上より、石田くん、西宮さんはともに、「他人との関わり方」に大きな問題を抱えていたことがわかります。
本来他人との関わりは双方向に行われるものです。しかし石田くんは、「自分⇨他人」という方向の関わり方しかできない。西宮さんは、「他人⇨自分」という方向の関わり方しかできない。
石田くんと西宮さんは、互いに反対の意味で、偏りのある人との関わり方をしていたのではないでしょうか。
2. 2人の抱える問題の原因
二人はそんな正反対の問題を抱えているのですが、その根は同じです。そう、小学生の頃、石田くんが西宮さんをいじめていたことです。
西宮さんは石田くんその他多数の同級生にいじめられる環境を生き抜く術として、石田くんらの意に添う、つまりいじめをひたすら甘受することを選択します。自らの本来の意思を示すことを放棄するのです。しかも西宮さんは言葉を発することができません。このハンディキャップが、上記の選択に拍車をかけてゆきます。
そして石田くん。西宮さんの転校後、石田くんは西宮さんいじめの罪を全てかぶることとなり、逆に他の同級生のいじめ、無視の対象となります。これを克服しようにも、自業自得ながら、「かつて耳の不自由な女の子をいじめ、転校させた」という自らの罪が、再起を図る石田くんの足を引っ張っていきます(その具体的な事例が、遊園地に遊びに行った後、一度西宮さん以外の全ての友人と衝突してしまったシーンです)。
彼は、どうしたって自分を前科者として眺めてくる他人をシャットアウトする生き方にいつのまにか至っていたのです。
3. 2人の抱える問題と2人の関係性の本質
ここまで考えると、2人の関係性の中身にあるものが見えてきます。
まずは二人の抱える問題の性質。他人の存在を認めることができない石田くん。自分の存在を認めることができない西宮さん。
この二人が互いの足りない部分を補完しあうことで、二人は初めて「自分」と「他人」の両方を認めることができる一人の社会的人間となれるのではないでしょうか。
そして二人の抱える問題の原因。西宮さんの抱える問題の根は、石田くんにある。石田くんの抱える問題の根も、ある意味西宮さんにある。
ならば、西宮さんの抱える問題は、石田くんに自らの意思を示すことで、石田くんの抱える問題は、西宮さんと向き合い直すことでこそ、解決できるのではないでしょうか。
そう、始まりは歪みにあふれたものではあったものの、石田くんが自分の問題を解決するには西宮さんが、西宮さんが自分の問題を解決するには石田くんが、もはや必要不可欠な存在になってしまっているのです。
加えて、二人は「他人との関わり方」について問題を抱えているところ、「他人と関わる」ということは、「生きる」ことに必須の条件です。人は一人では生きていけません。他人との関わり方に問題を抱えた二人がともに自殺を考えていたのは、その証左でしょう。
だからこそ石田くんは、他でもなく西宮さんに、心から、「生きるのを手伝ってほしい」とこぼしたのではないでしょうか。
お互いがお互いの「他人との関わり方」に関する問題を解決してあげる。それはまさに、お互いの「生きる」を取り戻すことなのですから。
恋愛、体が不自由であること、様々な要素を含んでいる本作ですが、本作のテーマは、恋愛、体が不自由であることその他様々な要素を含む、もっと広い、抽象的なものです。
そう、「他人との関わり方」こそ、本作のテーマであり、西宮さんと石田君の関係性の本質だったんだと思います。
「他人との関わり」という一見簡単に見えるものの難しさを明らかにした上で、その克服への希望を提示する。そこに、普段人との関わりに難しさを感じている全ての人への赦しを、私は感じるのです。
本当に、大好きな作品です。
(おわり)
※ 本記事は2018年9月に別ブログで書いた記事の再編集版です。
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