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ヨガで「師匠」と呼べる人ができたら、あなたは幸運の持ち主なのかもしれない

今回はヨガの「師匠」についての考察。

さまざまなヨガスクールやヨガスタジオのインストラクターのプロフィールでよく見かける「〇〇先生に師事している」、「〇〇先生のアシスタントを務めたことがある」という表記。
ほとんどの先生のプロフィールに書かれているものだから、いつか私も誰かに師事したりするのかしら…などとヨガを始めたときに考えてみたこともあったけれど、ヨガとともに生きる決意をして数年経つ今でも自ら「弟子入り」を望む先生はいない。

みんな当たり前のように弟子入りしているが、実は誰かに弟子入りするのって超難題なんじゃないかと最近思うのだ。世界にいるか、またはいないかもしれないたった一人の人を見つけようとするわけだから、まさに宝探しだ。だから、今回のタイトルにも掲げたけど、「ヨガで師匠と呼べる人ができたら、あなたは幸運の持ち主」なのだ。

私は、TT(ティーチャートレーニング)や数多の練習、ワークショップ・講座で勉強を続けてきたけれど、もう何年も「私には何かが足りない」と思いあぐねる日々が続いている。
その乾いた感覚は、私の長年のリサーチによれば「師匠」がいないということが起因していて、それ以来心のどこかでずっと師匠を探し続けているけれど、ヨガのアーサナや哲学を教えてくれる「インストラクター」や「先生」はいても、人間として指導してくれる、この人だけは絶対かなわない、一生ついていこうと思える尊敬する「師匠」はなかなかいない。

私には「師匠とはこういう人である」という像がある。高校時代のバレー部の恩師である。
私の代の監督ではなかったけれど部の初代監督で、初めてお会いして一目見た瞬間に圧倒された。全知全能者、人格者という言葉がぴったり。すべてを見通すような鋭い眼をお持ちで、先生にはどんな嘘もつくろいも見抜かれて、思わずひれ伏してしまいそうになったことを今でも鮮明に覚えている。そんな一種の恐さのような威圧感を覚えながらも、優しさと謙虚さで包まれているような方だった。先生のもとにはたくさんの人が集まってきて、周囲の方からとても慕われていた。そんな先生を見て育った。

先生には技術面や肉体面というよりも、高校生として、バレーボーラーとして、人間としてもつべき精神を教えていただいた。
ある日先生は「学校の行き帰りに空き缶拾いをしなさい」と仰った。
早速実行に移すと、意外と空き缶が道端の所々に落ちていることに気が付く。そして、空き缶だけではなくビンやペットボトルもあるし、本やポテチの袋などのゴミもあることに気が付く。汚いな嫌だな…などと思いつつ、駅のごみ箱に捨てて帰る。「今日は大漁だね~」なんて冗談を言い合ったりして。
当時はただ言われるがままで、なぜ空き缶を拾うのかはわからなかったけれど(先生が恐れ多くて聞けない)、今ならわかる。
横では先輩が常に監視の目を光らせているんだけど(笑)、そんな先輩と話をしながらも空き缶を拾うためには、自分の身体中に見えないアンテナを張り巡らせて、常に自分の周囲365°に配慮しつつ視野もできるだけ広くして注意深く探す必要がある。
そのようにして常に周囲を見渡しながら歩き、空き缶拾いをする。空き缶拾いを毎日毎日繰り返すことによって、少しずつ視野が広がっていく。学校の行き帰りから始まり、学校や電車の中、自宅、練習中、試合中などで目に見えてくるものが次第に変わっていく。世界が変わっていく。この大きな視野は、確実にチームにいい影響をもたらすのだ。

実はバレーボールの技術的な教えはあまり覚えていないが、この教えだけは卒業して何十年も経つ今でも時々思い出す。教えてもらったときの状況まではっきりくっきりと覚えている。それほどこの教えは、ほかのどの教えよりも私に浸透している。

こういうことを教えてくれる人物は探してもそう簡単には見つからない。
とても長い時間、残りの人生の時間すべてをかけて探しても、見つからないかもしれない。
もはや、その人物は日本にいないかもしれないし、ヨガを教えていないかもしれない。
そして、もしかしたら、高校時代のバレー部の恩師が師匠かもしれない…。

しかし、「師匠とはこういう人である」という像は、日々の自分や周りの環境に合わせて形を固定しないよう常にアップデートする必要があるようにも思う。

なぜなら、師匠というのは「想像(イマジネーション)」なのかもしれないから。

「おお、これは私を案内するのに良い人間のようだ。」そういうことなのだ。それはあなたがたの「想像(イマジネーション)」である。グル(師)というのはかくかくのものだと想像する、そしてその人があなたがたの期待したものすべてにそぐえば、「これが私の捜していた人だ」と言う―――。

『インテグラル・ヨーガ ~パタンジャリのヨーガ・スートラ~』
第4章第30節
スワミ・サッチダーナンダ著、伊藤久子訳

それゆえに、本当に「今世で師匠が見つかったらラッキー」なのだ。

だから、師匠がいようがいまいが、行うべきことはただ一つ。

今日もヨガの練習をすること

これに尽きる。