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ヨガで欲望との付き合い方を考える

ヨガのアーサナ(ポーズ)を行う上で、一番難しいことだと思っているのが「欲を手放すこと」である。サンスクリット語では「ヴァイラーギャ(離欲)」という。

特にアーサナ中には「もっとこうしたい、ああしたい!」という欲望がフツフツと生まれてくるときがある。アーサナをとりながらそんな気持ちがむくむく生まれ育っていることに気が付き、しかしヨガの教えに従って心の中で抑えようとしても、念じるだけでは人はその欲望をコントロールすることができない。
結局「もっとこうしたい、ああしたい!」と欲望のままにアーサナを行ってみるのだが、こういう気持ちを持ったときこそ、バランスを崩したり、呼吸が乱れたりして気持ち良くアーサナをとることができない。
このことは百も承知のはずなのに、時々自分の欲望に負ける。そして、「嗚呼、やっぱりヨガの教えはいつでも正しい。」とヴァイラーギャ(離欲)のことを思い出すのである。

このように書くと、一見、欲を持つことはいけないことのように受け取ってしまいがちであるが、しかし、ヨガではこの欲の存在を否定していない。

だが、欲望がなくなるなどということがあり得るのだろうか?
いや、実際にはそんなことはあり得ない。
心というものがそこにあるかぎり、欲望することがそれの務めである……。
それは矛盾しているように見える。
それを解く鍵は、私的なあるいは利己的な動機のない欲望はどんな欲望でもあなたを縛らない。

『インテグラル・ヨーガ ―パタンジャリのヨーガ・スートラ―』
スワミ・サッチダーナンダ著/伊藤久子訳

「心というものがそこにあるかぎり」―この言葉が心に染みる。

人間誰しも欲というものを持っていて当然なのだ。
ヨガ以外でも、食欲、性欲、睡眠欲の人間の三大欲求、それ以外の生理的欲求など、人間は欲望だらけな生き物なのである(笑)。
だから、アーサナ中に欲が生まれていることに気が付き、欲や欲が生まれた自分を否定することは不要だしナンセンスだ。

欲は持っていて当然、だったら欲との付き合い方を考えればよい。

私は、欲には二種類あると考えている。卑しい気持ちを伴う欲と、純粋な気持ちを伴う欲だ。パタンジャリ先生のヨーガ・スートラの中でも、この欲を利己的な思いとそうでない無私の思い、などと表現している。

卑しい気持ちを伴う欲のことを冷静になってよくよく解析してみると、欲の対象が自分ではなく他人に向いている。クラスをリードする先生や周囲で同じくアーサナをとる生徒、過去の誰かの言動など自分ではない何かに気持ちが向いて、それらからの見返りやフィードバックを期待する心、競争心、虚栄心などで欲の中身が構成されているのである。
ヨガを始めた1~2年はとにかくそういうことばかりを考えていた。今となってはなぜそんなことに気持ちが向いていたのかさっぱり思い出せないけれど、アーサナをとっても心も身体もいつも忙しく快適ではなかったし、ヨガを運動として捉えていたし、とにかく私はヨガを誤解していたのだ。

一方、純粋な気持ちを伴う欲というのは、欲の対象が自分にのみ向いているときに発生する。
主にチャレンジングなアーサナに向き合うときにその欲が訪れて、全神経が自分の身体のみに集中し、周囲はインストラクターの声や生徒たちの呼吸の音、スタジオ外の車や人の声等の音がしているはずなのだが、その時は自分の周りに透明な壁や膜のようなものができて、何の音も聞こえてこない無音のスンッ・・・とした自分だけの世界に入る。
その瞬間が訪れると、世界に取り残されたような静けさに私は思わず息を飲み込んで震え上がるのだが、一瞬の緊張を通り越し、集中状態に入り、そして最後に無欲・無心状態となり、バランスを崩したり呼吸が乱れたりせず、気持ち良く自分の思い通りに身体を動かせるのである。

どんな条件が揃ったら純粋な気持ちを伴う欲をもつ状態になれるかは、わからない。そして、わかろうとしなくてもいいのかもしれない。
卑しい気持ちを伴う欲がどういうものなのかを知っているので、少なくともその卑しい気持ちが起きないように自分自身をコントロールする必要があるということはわかっている。

では、卑しい気持ちを伴う欲が起きないようにするためにはどうすればいいのか?

やはり、練習するしかない。練習、練習、練習。その繰り返しだ。

スタジオに出向いての練習でもいいけれど、スタジオでの練習に慣れてきたら、できれば自宅で一人で練習することもお勧めする。スタジオのグループレッスンは流れがあるから練習したい内容ではなかったり、他人の存在もどうしても視界に入ってきてしまうからだ。

自宅で一人、心静かに目を閉じて自分の感覚を研ぎ澄ます、アーサナを丁寧にとる、鼻の呼吸に音に耳を澄ませる、足裏や皮膚の感覚、筋肉や骨の動きを感じてみる。
アーサナをとっている自分を閉じた目の奥で遠くから俯瞰してみるのだ。

これを毎回繰り返し練習する。アーサナは何でもいいけれど、さすが動く瞑想といわれている「太陽礼拝(スリヤナマスカラ)」はこの練習に最適であるから、よければ試してみて欲しい。ご存知であれば、1ラウンドごとにマントラを唱えて。

この練習方法により、私は自分以外の何かに気持ちが向くことは一切皆無になった。卑しい気持ちを伴う欲が入り込んでくる余地なぞない。

そのうち、自分の身体と会話ができるようになってくる。
そして、自分の身体が好きになってくる。
身体の動きが悪い日があっても、「今日は動きが悪いけど、動きが悪くてカワイイね♪」と自分の身体を楽しめるし、優しくしてあげられる。

あれ、私不思議なこと言ってる?(笑)

どんどんヨガの楽しみ方がニッチな領域に進出していくのを横目にしながら、毎日練習に励んでいる。