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ヨガは自分を信じる練習である

最近、ヨガは「自分を信じる練習」であると思うようになった。

「本格的にヨガを学ぼう!」と決意をしてから気付けば早数年が経った今、私がヨガを始めたきっかけでもあった「疲れ切った身体を何とかしよう」という藁にもすがる思いや、身体を柔らかくしたい、痩せたいなどの願い、いかに美しいアーサナを取るかという野望はもう霞んでしまい、最近は生意気ながら?達観視ともいうような視点でヨガを捉えるようにもなった。
もはや肉体への意識は意識の片隅へと移動し(無くなったわけではない)、肉体の内側にあるものに大きく意識の配分が変わったのかもしれない。

そういう視点で見ると、アーサナ(姿勢法)も、プラーナヤーマ(呼吸/調気法)も、メディテーション(瞑想)も、すべては自分を信じて「私は大丈夫」なのだと自分に安心し、くつろいでいくための方法のひとつなのだと思っている。
特にアーサナは、自分を信じるいい練習になる。
日常生活では決してとることのない不安定な「姿勢」をあえて意識的にとることによって、肉体にわざとストレスをかけて緊張させていく。
緊張時には身体がグラグラと揺れて倒れそうになったり、プルプルと震えてきたり、身体のどこかに違和感を感じたり。そしてそれはだんたんと心にも広がっていき、身体への意識が抜けたり、まだ終わらないかなアーサナから解放されたいなどという雑念が次から次へとどんどんとわいてくる。
そのようなストレス・緊張状態のさなかにあっても、アーサナという型の中で、極端に言えば5分でも10分でも安定してとどまっていられるベストポジションを見つけ、肉体的にも、そして大事なのが精神的にも、快適な状態で安心しくつろいでいくということをアーサナでは行っているのだが――。
自分を信じていなければアーサナはどれもその姿勢を保ち続けることは難しくなる。

私たちはつい忘れてしまいがちなのだが、ヨガの最大の目的は「心を止滅させる」ことである。死滅ではなく、止めて滅すると書いて止滅(しめつ)。
だからといって、心を殺すことでも、何にも考えないことでも、無の境地に辿り着こうとすることでもない。身体と心を自分のコントロール下に置く。
身体の力みや緊張をできるだけ手離す。ザワザワとした心のざわめきやふと無意識になればフワフワとどこかにいってしまいそうな心を「大丈夫だから、自分を信じなさい!」と自分に留めておくことが大切なのだ。
何かと見た目が重視されるヨガ。ドロップバックができる、180°開脚できる、首に足を引っかけられる……そんなことよりも、自分で自分をコントロールすることの方が重要だと思う。
このことさえきちんと明確にしておけば、「あれ、自分はなんでヨガをしているんだっけ?」などとは迷うことは一切なくなるはずだ。昨今ブームとなっているピラティスなぞにも目もくれず。

私はヨガの精神世界に惹かれ、ヨガを本格的に学び始めた。ヨガを始めた当初は私も身体にばかりフォーカスしていたけれど、ヨガを学べば学ぶほど当時の先生が心のことを教えてくれてヨガって何て面白いと思ったのだ。
身体のことを教えてくれる人はたくさんいるけど、心のことを教えてくれる人はあまりいない。
身体とは、心とは、自分とは、人間とは――このようなことを教えてくれるのはヨガ以外にはない。ヨガはヒトのすべてを教えてくれる。