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自分を変えるための2つの方法ーいまやせたいあなたへ

自分を変える方法はたぶん2つに分けられます。

ひとつ目は、自分自身の欠点を修正する。
ふたつ目は、世界の見方を変えてしまう。

私は文化人類学という学問を専門とする大学の教員です。

そんな私がなぜ自己啓発チックなことを言っているのかというと、文化人類学の講義をする度に、「生きるのがすごく楽になりました」、「自分を受け入れることができました」といった感想が寄せらるから。

私の意図しないところで、学生が勝手に変わっていくという現象を毎年毎年目撃するからです。

文化人類学は、誰かを支援したり、治療したりするための学問ではありません。私が講義で話すことなんて、呪術とか、妖術とか、贈り物合戦とか、そんな話ばっかりです。

いったいどこに変わる要素があるのやら?

でも落ち着いて考えてみると、文化人類学という学問のある特徴に、どうやら人を変え得る要素があるらしいことに気付きました。

それは「自分の世界をしっかり見てみる、考えてみる」という特徴です。

どうやらこれには人を変える力、さらには「自分の欠点を修正する」という広く知られた方法の弱点を補う力があるようなのです。


「欠点修正アプローチ」の弱点

世の中には自信のない人に向けた自信をつけるためのアプローチが、もう星の数ほどあります。最近はすぐに結果が欲しい人が多いので、その期間は3日でも長すぎで、「5分で変われます!」みたいなアプローチもありますよね。

欠点習性アプローチの基本的な枠組みは、「正しい」VS「間違い」の対立図式です。

いまのあなたは「正しい」からずれている。だからあなたの中の「間違い」を「正しい」方向に修正しましょう。そういうアプローチがとられます。

確かにこういうアプローチは、違う自分に出会えそうでワクワクします。

ついでにそれを提唱する人たちは有名だったり、立派な肩書がついていたり、さらには外見まで素敵だったりするので、シャイニー度は抜群。

こんな風になれたら素敵だなあ、と思うでしょう。

もちろん、そこまでシャイニーではなくとも、親とか、会社の上司とか、先輩とか、あなたを「正しい」VS「間違い」の後者に置き、どれだけあなたが「正しい」からずれているかを500%の善意で教えてくる人も多いはず。

ここではこういう方たちを"正しさ組"と呼ぶことにします。

「欠点修正アプローチ」には利点もたくさんあるのですが、弱点もあると私は考えています。

それは、「欠点修正アプローチ」はあなたのいまを否定せざるを得ないという点、もう1つは"正しさ組"の人たちは、いっけんものすごく正しそうに見える”正しさ組”の人たちは、意外とそこまで正しくない点です。

その結果、"正しさ組"の呼び声にそってあなたを修正しても、翌日に反対のことを言ってくる人に出会ったり(これが同じ人というケースも多数)、ふたを開けてみたら"正しさ組"の「あなたのため」は実は「自分のため」だったなんてこともよくあります。

加えて一番問題なのが、"正しさ組"の言うことばかり聞き続けると、自分がなくなってしまうという点です。

「欠点修正アプローチ」は、自分を「間違い」の中に置き、正しい方にずらしていくというアプローチにならざるを得ないので、あまりやりすぎると「自分は何が好きで、何がしたいのか。自分は何が嫌で、疲れちゃうのか」といった基本的なことまでわからなくなったりするのです。


自分自身を変えるため、世界の見方を変えてみる

さて、ここで文化人類学的アプローチの登場です。

文化人類学は「右と左がない」とか、「お葬式のために死んだ人を食べちゃう」とか、世界のさまざまな民族の生き方を通じて、自分たちの周りを空気のように覆っている「当たり前」様子を見てみる学問です。

そして、その時にとても重要なのが、何が間違っているとか、何が正しいとか、そういう見方をいったんわきによけること。

人は自分自身がなんだかんだ言っていちばん正しいと思う生き物ですから、これをしないと「右と左を教えてあげなくちゃ!」「人を食べるなんて、なんて野蛮人なの?!」といった気持ちが簡単にわいてきてしまうのです。

一方、正しい、間違いをわきによけて、右と左のない民族や、弔いのために人を食べちゃう民族のことを考えてみると、「どうして右や左がないんだろう」「どうして死人を食べるんだろう」という疑問が湧いてきます。

こういう形で少しずつかれらの世界になじんでいくと、次第に疑問は「私たちが右と左を通して世界を理解するのはどういうことだろう」、「どうして日本は火葬をするんだろう」という形で自分たちの世界に向いてきます。

すると、「当たり前と思っていた自分たちの世界こそが実は一番変なんじゃないか?」みたいな疑問がわいてきて、その結果、洪水のように押し寄せる”正しい組”の呼び声から少し距離を取ることができるようになるのです。


摂食障害の調査を通じて感じたこと

私は15年にわたり”摂食障害”(と呼ばれる病気)の調査をシンガポールと日本でやってきました。そして2016年から2018年3月にかけて、からだと食べ物のことを考える「からだのシューレ」というワークショップを10回にわたり開催しています。

その中で、私は摂食障害の当事者の方のみならず、多くのやせたくてたまらない女性に出会ってきました。

彼女たちとの出会いを通じて感じること。

それは「欠点修正アプローチ」をやりすぎた結果、自分の体重、食べ物、生き方をすべて「正しい」「間違い」で判断するようになり、自分自身を消してしまうということです。

「天気がよくて気持ちいいなあ」ではなく、「ここまで歩けば300カロリー消費」できるになってしまう。

「このチキンカツが超おいしい」ではなく、「こんな健康に悪いものを食べてはいけない」になってしまう。

その結果、小さい子どもなら簡単にわかるような、「これが好き、これがキライ」、「これは心地いいけど、これはやな感じ」といった気持ちが消えてしまっています。

自分の中の軸がなくなるので、常に”正しい組”を探し、その人たちに答えを全部ゆだねてしまいます。

私は文化人類学者として思います。

”正しい組”の呼び声がそこらじゅうにあふれる今の時代だからこそ、”正しい組”からちょうどよい距離を取る方法が必要ではないかと。

そしてその時に、世界をゆっくり、しっかり見てみるという文化人類学の方法は、何もできないようで、力を発揮するのではないかと。

このマガジンでは私の得意分野である「からだ」と「食」、「病気」をテーマにしながら、世界のいろいろな当たり前を紹介していきます。

このマガジンを通じて、みなさんの周りにある当たり前のカタチが少し見えるようになるのなら、当たり前の呪縛から、逃げてもいいと少しでも思えようになるのなら、文化人類学者としてこれ以上の喜びはありません。


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