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言葉の紡がれるとき

文章には朝型と夜型があると思う。

村上春樹が午前4時から8時くらいまでの早朝に小説を執筆しているとなにかで読んだことがある。出典を忘れたので正確な数字ではないかもしれないがとにかく朝だ。

それに比べて、最近読んだ中島らもの小説は夜書かれたように思えてならない。以下『バンド・オブ・ザ・ナイト』からの引用。

 二十七歳。それがおれの年だ。二十七にもなる人間がこんなことをしていていいのか、とも思うが、ま、仕方がない。フーテンなんだから。
 ラリると、意識は紗がかかったようになるし、ろれつもまわらなくなるが、一方で万能感のようなものが湧いてくる。眠くなど少しもならない。ノルモレストにハイミナール。これがおれのフェイバリットだ。やわらかくて上品なラリり心地。
 椅子に腰かけそこねて倒れてしまったり、食物の皿の上に煙草の吸い差しをねじり込んでしまったり。そんな誤りの度ごとに我々は腹をかかえて笑う。ラリっていることの充足感。ウィスキーの酔いと睡眠薬の効き目が掛け算になって脳をジューシィにする。
 おれは電気ギターを手にとって弾きはじめた。
 (中略)
 脳の中で、ドーパミンが荒れ狂っている。血液の中でアドレナリンが煮えたぎっている。
 おれはヨレヨレになりつつもどんどんハイになっていく。
 いくつかの言葉が嵐のように脳裡を過ぎ去っていく。
 その言葉は誰のものでもない言葉。砂の王国の市を行きかう言葉。日照りの灼熱の下でひからびていく言葉。
 そしてその言語が囲繞できる猫の額ほどの土地とショウジョウバエでまっ黒になったミルクティのコップと、未だ名づけられないさまざまの感情と包茎の先のピアスと誰に言うでもないさようなら、大事なセリフを吹きとばされて子供みたいに追いかけるT字路、そうお前の匂いのする街でとてもシラフじゃいられない、マラリアにかかった赤い月、呪言、水のような下痢、カルカッタの乞食、未封のメンソレータム、“あっ”と“それで?”「私がいつ」と「時間よとまれ」と「いつの日にかね」が交差するスクランブル・エリア(後略)
 (中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』講談社文庫、2004年、pp.44-45)

「そして言語」から始まる句点のない異様な言葉の羅列はこのあと10ページ以上続く。この小説ではドラッグによるトリップで度々このような表現がなされる。

作者の中島らもは実生活でもドラッグを使用しており(2003年に大麻取締法違反で逮捕されている)、この描写は創作ではなくて実体験によるものと思われる。また大のアルコール好きであった。そのためこの文章を書いていたときも酩酊に近い状態、そしておそらく夜だったと推察するのだ。

そういう視点で村上春樹の文章を読んでみると、その描写はやはり朝を想起させる。以下『レキシントンの幽霊』所収の「七番目の男」より引用。

 七番目の男はしばらくのあいだ、黙って一座の人々を見回していた。誰も一言も口をきかなかった。息づかいさえ聞こえなかった。姿勢を変えるものもいなかった。人々は七番目の男の話の続きを待っていた。風はすっかり止んだらしく、外には物音ひとつ聞こえなかった。男は言葉を探すように、もう一度シャツの襟に手をやった。
 「私は考えるのですが、この私たちの人生で真実怖いのは、恐怖そのものではありません」、男は少しあとでそう言った。「恐怖はたしかにそこにあります。……それは様々なかたちをとって現れ、ときとして私たちの存在を圧倒します。しかしなによりも怖いのは、その恐怖に背中を向け、目を閉じてしまうことです。そうすることによって、私たちは自分の中にあるいちばん重要なものを、何かに譲り渡してしまうことになります。(後略)
 (村上春樹『レキシントンの幽霊』文春文庫、1999年、p.177)

止まった時のなかで、静かに、真理に近づくためにひとつひとつ言葉を探しあてるような繊細な手つきを感じる。 

探しあてられる言葉と、嵐のようにやってくる言葉。違うやり方だけど、私にはこの2つがどこかで交わっているような気がしてならない。

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