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仁川から 出征へ

1943年(昭和18年)10月21日、明治神宮外苑競技場の「出陣学徒壮行会」を終えた学生たちは、各自徴兵検査を受け、1ヶ月の自由時間を過ごした後、12月1日に陸軍へ入隊、あるいは海軍へ入団していく予定でした。
礒永秀雄は山口県の中学校で徴兵検査を受け、検査官に「海軍」への入団志望を伝えたのち、両親の住む仁川の実家へと向かいます。
すると間もなく、仁川の家に次のような電報が届きました。

─── センパクヘイニテ 1ヒウジ 12ニウタイセヨ。

船舶兵とは海軍のことなのでしょうか?しかし海軍であれば入隊ではなく入団と記されるはずです。
疑問に思った秀雄は仁川府庁に赴き尋ねました。
府庁で知らされたのは船舶兵というのは敵前上陸専門の船艇を操る陸軍だということでした。南方の島々では戦況が悪化していました。敵の弾丸をくぐり抜けながら味方を船艇に乗せて海岸まで運ばなくてはならない船舶兵は戦争最前線の消耗品であり、死に最も近い部隊だと言えます。
しかし一度決定された配属先は覆すことはできません。
秀雄は天皇の名の下、死への忠誠を誓わせられて戦地へと向って戦わなければならない、奴隷と同じ心境になりました。

家に帰って両親に配属のことを伝えると両親の表情が曇りました。それを察知した秀雄は明るい表情で、「大丈夫ですよ。必ず生きて帰りますよ。」「僕は戦争に行っても不死身ですよ。僕の予感を信じてくださることす。」「戦争で多くの時間を失うかわりに、命だけはとっておきますよ。」出兵した後、両親が今日言った言葉を思い出して安心するように、仮に戦場からの便りが届かなくなったとしても、今日の言葉を思い出して無事を信じてくれるように、秀雄は何度も何度もそれらの言葉を繰り返して両親を安心させようとするのでした。

死に一歩一歩近づいていることを感じた秀雄は、仁川滞在中のほとんどの時間を使ってノートに100枚ばかりの自伝を書き綴ります。
秀雄をそうさせたのは、もし出征して再び戻ることが出来なかった時。ここで書き残したノートは、「青春の柩」となって消え去り、もし幾年かの戦塵にまみれて無事生還した時。ここで書き残したノートは、青春のみずみずしい感性を蘇らせてふたたび立ち上がらせる「夢の塔」になると信じたからです。

礒永秀雄と両親(母ルイ、父高輔)

礒永秀雄の家は朝鮮人部落の中にありました。家には秀雄が子供の頃から働いている朝鮮人の女中がいて、近所に住む多くの朝鮮人に愛されていました。
隣で旅館を営む朝鮮人の老婆は、一人息子である秀雄が戦争にとられることに対して、
「どうして一人息子が戦争に行くのに、日本人の母親たちは一緒になって戦争から息子を守ろうとしないのか。」「一体どこの馬の骨が戦争なんかおっぱじめたんだ。」
とまるで自分の息子が戦争にとられていくように嘆きます。

出征の日が近づくと自宅にさまざまな出征祝いが届きました。
親戚と町内会からは出征用ののぼりが。
徴兵検査で第三乙種(第二補充兵)となった東京帝国大学の同級生からは総長のサインの入った日章旗。それに寄せ書きの日章旗。
叔母からは無事に帰還することを祈って作られた千人針の腹巻(弾除け)。
そして差出人不明の清酒が2本(白鶴)。 

清酒の差出人を調べた結果、差出人の1人は、半年ほど前に朝鮮人街の古書店で知り合った狂心的なクリスチャンの青年であることがわかります。彼は朝鮮人ですが、何度も会っているうちに、戦争を否定し愛と自由と平和を望む熱い思いに強く共感、意気投合して行きました。
「礒永さん。世界は一つですよ。人類は一つですよ。科学が進んで戦争が栄える。こんなバカな話ないですよ。機械が神様ですか?鉄が神様ですか?間違っていますよ。戦争を起こす人は『ゲヘナ(地獄)の炎』で皆んな消え去ればいいのに...。」
彼には、来年からミッションスクールの設立に着手するので大学を出たら参加して欲しいとも言われていました。

今回彼に出征が決まった事を話すと、「今の日本の状況を考えると仕方のない事です。でも礒永さんはどこに行っても神様が守ってくれるから大丈夫。僕たちは毎日祈っています。だから戦争で自分の命を捨てないでください。祈ってますよ。礒永さん。」そう言って握手を求められました。

差出人のもう1人はクリスチャンの青年に賛同する朝鮮の女学生です。女中が電話を使って清酒の差出人である女学生を探し出してくれたのでした。女中が秀雄に受話器を渡すと女学生は、
「あなたの出征の事を今日聞きました。ミッションスクールに来てくれることを聞いていたのに本当に残念です。清酒は2人が贈ったものです。清酒を飲んで元気を出してください。戦争を望まない人々には神様、キリストが付いています。戦争が終わったら早く帰ってきてください。私、さよならは言いません...」
面識のない敬虔なクリスチャンの女学生の言葉に秀雄は感動を覚えました。

出征の日。親子三人の祝いの膳は、縁起物の赤飯。尾頭付きの鯛。勝栗でした。律儀な父は軍国調の厳父を装い、母は大きなあきらめの中に息子の平安を祈ります。
秀雄はできるだけ快活に、僕のことを気にかける前に、二人ともしたいことをして欲しい。余生を存分楽しんで暮らすことが僕の心の慰めになると告げ、僕には生き延びて帰ってくる妙な自信のようなものがあることを伝えました。
家に飾られているの角帽姿の自分の写真を見て秀雄は苦笑します。出征している間は写真の前に毎日蔭膳が備えられることを想像したからです。

東京帝国大学入学時の礒永秀雄

出征の日の諸々の準備をしてくれたのは隣に住む新日家の朝鮮人の府会議員です。秀雄と握手を交わしながら
「元気でやってください。」
「頑張ってください。」
「つまらぬものですが私共がおりますから御両親のことは御心配なく」
と言い、町内の者を指示して仁川駅までの見送りや荷物を運ぶ手配をしてくれました。門の前は黒山の人だかりになっていました。町内会長の音頭で万歳が三唱されます。
訪ねてくる近所の人々は「おめでとうございます」と声をかけます。
軍隊上がりの伯父は「しっかりやって来いよ。秀雄は鉄砲の名人だから。射って射って射ちまくって来い」そして「一人息子だからな、死んじゃならんぞ。」と低い声で別れの声をかけました。

出征は「名誉」なこととされ、本人や家族も泣くことは許されないことでした。
出発のため玄関に立ち、年老いた女中に「元気で。」と声をかけると、女中は拳の内側の付根で鼻先をこすりあげ二三度素速く頷きましたが、皺くちゃの顔の中の小さな目が潤んでいるのが分かりました。
秀雄は門口で心配そうに見送る母に
「大丈夫ですよ、お母さん。」と言って掌をしっかり握り、
「お大事に。たくさんお便りします。」と笑顔で母の肩を叩き、両親の元を離れて行きました。

仁川全景(1945年頃)

国民服の男性2人が二本の出征の旗をかつぎ、その後に朝鮮の青年たちによるブラスバンドが賑々しく軍歌を演奏します。その後に50人程の行列が並び、(3割が日本人。7割が朝鮮人)仁川駅まで見送りに向かいます。

薄墨色の曇天の下。行列と共に駅へと向かう秀雄は、まるで自分が街の中を通り過ぎる「柩」のような心境でした。駅に向かう行列の中に秀雄の姿を見つけた顔見知りの朝鮮人は、目を逸らしたり、じっと目を見つめて頷いたり、作り笑いをしたり、どうしていいのか戸惑って悲しい顔でお辞儀をしたりします。

やがて見送りの行列は仁川駅前広場へと到着。学徒兵たちが集まっていました。
秀雄の胸の中には、大学の文学部長の「生きて再びこの門をくぐってほしい」という言葉や、数多くの朝鮮の人たちから受け取った「生きて帰ってきてください」という『真実』の励ましの言葉が渦巻きました。
その善意に応えるには、戦場で間違わないものをしっかり見据えて帰るのが義務であり、死なずに生き抜くことが唯一の責任であることを心に固く誓い、秀雄は仁川駅の汽車に乗り込みました。
汽車は釜山に到着、釜山から海を渡り、秀雄は戦地へと向かう船の待つ広島県宇品港へと向かって行くのでした...。

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