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八角と油葱酥

2014年3月23日
J1リーグ 第4節
味の素スタジアム
FC東京 0-4 川崎フロンターレ
https://www.fctokyo.co.jp/game/2014032309

短編小説/2258文字


 その魯肉飯屋の親父は俺に向かって言った。
「おい、日本人。シケたツラしてるんじゃねえ。こっちまで気分が暗くなるだろうが」

 俺は銀色のスチールテーブルに肘をついて街を眺めていたが、その声に振り向いた。禿頭にたっぷりと口髭を生やした親父が、妙に鋭い目つきでこちらを睨みつけている。あたりには近所の屋台から発せられる臭豆腐の臭いが微かに漂っている。最初はその匂いが苦手だったけど、旅の間に慣れてしまった。

 親父に向かって言い返す。
「うるせえよ。どんなツラしようが俺の勝手だろ」
それを聞いた親父はふん、とつまらなそうに笑い、鍋に目を移した。
「そんなツラされたら俺の店がマズいみてえだろうが」

 俺はまた言い返した。
「うまいもマズいも、そもそもこんな店近所の常連しか来ねえだろ」
実際にそうなのか俺にはわからなかったが、そうとしか思えない。
台北の郊外、淡水河の反対側。
駅から遠く離れたこの界隈は古くからの商店街だった。商店街、といってもほとんどの店はシャッターが下り、あたりには午後の気怠い空気が流れている。
観光客が好んで来るような場所ではない。物好きな俺くらいのもんだ。

「だいたい遅えんだよ。俺の魯肉飯はどうしたんだよ」
親父は鍋をレードルでかき混ぜていた。鍋の中では煮込まれて形を失った肉が、ぐつぐつと音を立てている。使い込まれた鍋は茶色く変色していて、とても衛生的とは思えなかった。

 しかし、あたりには醤油と八角、それに揚げた玉葱の香ばしい匂いが立ち込め、食欲をそそる。俺はこれ以上ないくらい最低な気分だったが、そんな事は関係なく腹は減るのだ。親父は仙人のような表情を浮かべながら言った。
「今やってるよ。黙って待ってろ」

 俺は舌打ちをした。
「そんなもん飯よそって鍋の肉かけるだけじゃねえか」
親父はもう一度馬鹿にしたように笑い、言った。
「ふん、素人が。いいか、日本人。俺は40年この仕事やってんだ」
またこの話だ。昨日は50年って言ってなかったか?
「よくもまあ、こんなシケた店を」
親父はしてやったり、という腹の立つ笑いを浮かべて言った。
「シケた店でシケたツラしたお前よりマシだよ。悩みがあるなら聞いてやろうか?」

 冗談じゃねえ。
 応援しているサッカーチームがボロ負けして落ち込んでるなんて言えるかよ。ゲストハウスの部屋で必死で海賊ストリーミング中継を探してたさっきまでの自分がアホみたいに思い出される。手酷くやられて、なにもする気が起きない、なんて。

 突然、鍋を睨み付けていた親父が鋭く動いた。茶碗に飯をよそうと、それにレードルで肉をかけて俺の前に置いた。
「ほらよ。マオ様特製の魯肉飯だ。食え、日本人」
俺は悪態をついた。
「なにが特製だ。遅えんだよ」
親父は眠たそうに屋台を拭きながら答えた。
そんなところ、拭く意味あんのか?

「なんにでもタイミングってもんがあるんだよ」
タイミングね。
俺は箸の袋を破いた。
ふと、親父が手を止め、こちらを向いて言った。
「おい日本人。よく聞け。人生はな、良いことと悪いことの繰り返しなんだ」
親父はぶっきらぼうに続けた。
「なんか悪い事があったって別に絶望する必要はねえ。次は良いことが来る。次じゃなきゃその次だ」
俺は呆気にとられた。
この親父、俺を励まそうとしてんのか?
「まあいつかは良いことがある。だからシケたツラは止めろ。商売の邪魔だからな」
親父は優しさの欠片もない表情で言った。
俺はふん、と笑った。
「ずいぶん達観したことを言うじゃねえか。屋台の親父が」
そう言うと、親父はまた、あの仙人みたいなツラで答えた。
「毎日鍋ん中を睨んでなきゃ見えねえこともあるんだよ。お前もやってみるか?」
俺は反射的に答えた。
「冗談だろ?」
 それを聞くと、親父はこれ以上ないぐらいのドヤ顔で答えた。
「俺もそう言ったぜ。親父から商売継げって言われた時にはな」
 今日一番ムカつく笑いを浮かべたあと、すぐに真顔になって続けた。
「それはそうと、さっさと食え。さっさと食ってさっさと出行く。こいつはそういう食い物だ」
それだけ言うと、親父は背を向けて煙草に火を点けた。俺は目の前の魯肉飯を見た。ご飯の上は茶色く煮込まれた肉の欠片で埋めつくされ、油で艶やかに光っている。

 俺は一度だけ小さく息を吸うと、一気にそれを掻き込んだ。とっとと食って、次の街だ。

 口に出さなかったが、そもそも最初から知っていた。確かにこいつは台北一うまい。ってことはたぶん、世界一ってことだ。


お互いに勝ちのない状態で迎えた多摩川クラシコ。
直前にナビスコカップで鹿島に快勝し、いい状態で迎えたはずのゲームでしたが、ミスからの失点を皮切りに、小林悠、大久保嘉人に2点づつ奪われ完敗でした。

ぼくはこのゲームを実際に台北で見ていました。
一人旅のスケジュールをこの試合を中心に組み立て、龍山寺にある汚いモーテルの一室で貧弱なwifiをつかまえ、海外の海賊サイトで生中継を必死で探し、苦労して観戦した覚えがあります。それにも関わらず、この悲惨な結果。
絶望に打ちひしがれ、半日天井を見つめていました。なんとか夕食を、と気力を振り絞って外に出ると、そこは賑やかな夜市で、その活気に救われた思いでした。このお話のようなオヤジはいませんでしたが、そこで食べた魯肉飯の味は忘れられません。

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