「ぎょらん」(町田 そのこ著)
ようやく今月一冊目の読了です。ここのところ副業で会社を作ったりしていて、単純にあまり読書の時間が取れないのもあるんですが、数字をいじっていると違った頭の使いかたをしているのか、本を読むスピードがガタ落ちしてるんですよね。それでもというか、だからこそ、読書は貴重なリフレッシュの時間になっている気がします。
町田そのこさんの本は、年始に「52ヘルツのクジラたち」を読んで以来です。それを読んだときに映画みたいに情景を描く人だなあと思ったのですが、この「ぎょらん」でも、読者をその場に連れて行ってくれるような描写にいくつも出会うことができました。
とはいえこの本は死者が遺すものがテーマなので、章ごとに人が死んでいくのがまあまあしんどかったです。身近な人が亡くなってしまうという「喪失」、そして残された者が感じる「悲嘆」。ひとつひとつの死が丁寧に描かれているだけに、余計に現実感をもって迫ってくる喪失と悲嘆。そのどれ一つとして同じものはないんだなあと気付かされます。
「公認されない悲嘆」という概念があります。世間から認められない関係にある人の死、自死や事件による死、パンデミック下での死・・・。こうした公に死を悼むことができない状況で、取り遺された者は一人で喪失と向き合うことを余儀なくされます。悲嘆につながる「喪失」には、死だけでなく離別も含まれることを考えると、実は「公認されない悲嘆」は世に溢れていて、誰もそれを人目に晒していないだけなのかもしれません。
結局「ぎょらん」とは何なのか? はじめのうちはそれがすごく気になっていたんですけど、読み進めるうちに「ぎょらんとは何か」はあまり重要ではないと思えてくるのが、この小説の不思議なところですよね。もう二度と話すことができない人との間に残る、想いや願い。登場人物たちがそれを辿っていく作業、それこそに大きな意味があることに気付かされます。
大切な人と離ればなれになってしまったとき、そこにどんな意味を見つけるか。前向きな意味を見つけられるときもあれば、後悔や罪の意識しか見出だせないということもあるかもしれません。それこそが「ぎょらん」のもつ多面性だと思うし、一方で指で潰したりもできる、乗り越えられる存在でもあるということなんだと思います。
喪失に意味を与えてくれるものは、どこまでいっても、互いに話せていたときの思いの延長でしかないのかもしれません。今までもこれからも、喪失は私たちに訪れます。間違いなく。いま自分と関係を結んでくれている人たちと自分自身のために、後悔のないように思いを伝えていきたい、そう思わせてくれる本でした。
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