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弱者男性が生まれるまで~身分制の崩壊→弱者闘争~ シリーズ「弱者男性はどこへ往く」第2章

弱者男性とは、歴史上一度も登場したことが無い極めてイレギュラーな存在であることはまず間違いが無い。

では、これまでの歴史上で一度も「何も持たず、貧困で、無知無力な男性」自体が存在しなかったのかというと、そんなことは無いはずだ。

人類の歴史はこれまでいくつもの戦争・飢餓・混沌を繰り返してきた。その中では当然、無力で不幸な男性も存在してきた事だろう。

しかしそれは弱者男性ではあり得なかった。

世間は「彼」のことを今の弱者男性が扱われているようにはしなかっただろうし、「彼」本人も自分を「弱者男性」だなどと考えることは無かっただろう。

なぜかつて歴史上一度として登場してこなかった「弱者男性」が、現在これほどまで多く出現する事態となってしまったのか。

それは近代~現代までの間に「これまでの身分制の崩壊」があり、「新たなる権力闘争」があり、その果てに「どこにも属することができなかった哀れなる除外者」が生まれてしまったからに他ならない。

なぜ弱者男性はここまで社会から除外される存在となってしまったのか、歴史的背景から考察していく。

身分制の崩壊

人類は、人類史のほとんどを占める長い長い狩猟時代の果てに次のステージとして「身分社会」を生み出した。

身分制とは即ち、原理的には物的資産の多寡で人間の価値を決める制度のことだ。身分制の中では、より物資を持っている物が上位の存在となり、物資に乏しい下位の存在を従えるという形で社会を動かすこととなる。

ヨーロッパ的貴族制、日本的武士・将軍制度など様々だが、その根底には常に「物理的豊かさに支えられた権力」があった。

「武士は食わねど高楊枝」などという言葉もあるが、根本的に身分制度とは物資の多寡が存在価値を決めるので、上位存在の力が弱まり下位存在の方が物資的に豊かになった瞬間その立場がひっくり返るということは往々にしてあった。

中国の王朝交代の歴史などはこれを顕著に表していて、どれだけ繁栄を極めた王朝であったとしても、政治が上手くいかなくなって王朝の力が弱まればすぐさま下位存在の中から出てきた「英雄的存在」によって倒されてしまう。

日本の「武士」などと言う存在も、政治的に上位に据えられていたとしても所詮は物資の多寡によって優位に立っているだけの存在であり、いざ落ちぶれてしまえば「落ち武者狩り」などのように農民にさえ物資とその立場を奪われてしまう程度の物でしかなかった。

身分制に置いて、「権力」とは「物資力」という非常に分かりやすい物とリンクしていたが故に、人間が何を目標に生きればいいのかということも分かりやすかった。

この頃は男女の性差による社会的役割もまた明確であったと言える。

男は生来の身体能力でもって、狩猟なり開墾なり、はたまた戦争なりで外部から物資を手に入れるための存在だった。

女は男が外部から物資を得るための助力であったり、新たな労働力である子どもの生産であったりで、内部から物資取得のための支援をする存在だった。

このような社会で「弱者男性」などという物は生まれる余地が無かった。なぜならどんなに無知蒙昧な男性であったとしても、物資さえ外部から手に入れることができればその存在価値は十分すぎるほどあったし、それさえできないような個体は自然に淘汰されていたからだ(男女の区別なく)。

しかし、長らく続いた「身分制社会」が突如崩壊へと向かっていくきっかけとなった恐るべき発明が、末期の中世ヨーロッパ社会にて突如生まれてしまった。

その名は「人権」。封建社会の終わりを告げたと言われている「フランス革命」において、人類平等の市民社会という物を「捏造」するためにキリスト教が母体となって生まれてしまった、弱者男性としては忌むべき現代社会をむしばむ病原菌の誕生であった。

現代まで続く「弱者闘争」の始まり

フランス革命によって生み出された「人権」は、人類が皆平等であるという大前提を共通認識とするための物であると言うのが一般的な認識である。

しかし、僕の認識はそれとはだいぶかけ離れている。

「人権」とは、物資を持たざる社会の下位者が上位者に反目するために生み出した、俗な言い方をすれば「チートアイテム」的な物なのではないかというのが僕の考えである。

「人権」は、物資の多寡関係なしに「人は皆、人として生まれた時点で様々な権利を有する」という大前提を創り上げてしまった。

では、それによって損をするのは誰だろうか? 言うまでもなくこれまで物資を大量に有し、上位者として君臨してきた者達である。

「人権」は、上位者らがこれまで必死に積み上げてきた物を全て「権力とは無関係な物」に仕立て上げてしまい、それどころか「人は皆平等な権利を有しているのだから、物資を持たざる者に対しては物資を有する者がそれを施すべき」などと言うとんでもないロジックまででっち上げてしまった。

「人権」は、明らかに物資の乏しい者に対して有利な物に仕立て上げられている。それは、元々社会の下位者が上位者よりも優位に立とうという無理くりな目的のために組み上げられたものであるからに他ならない。

しかし「人権」によって新たに作り変えられた社会には、明らかに意味不明なバグのような部分ができがってしまっていた。

先にも言ったように、「人権」とは持たざる者に対して優位なシステムである。つまり、より弱者であればあるほど「人権」というシステムの恩恵にあずかれるということになってしまう。

「人権」によって成り立っている社会では、より物資を持たず、より無力で、より無知な物の方が優位になってしまうのである。

さて、そうなればその先に起こる事態は容易に想像ができるだろう。

今日まで続く「弱者闘争」の時代の始まりであった。

弱者闘争は、より多数存在する「弱者」とされている物から順番に声が上がる闘争であった。

最初に声を上げたのは「女性」だった。これまで身分制社会の中で「役割」として物資を手に入れるのではなく補助する側に回っていた女性たちは、自分たちの役割は不当な物だと、人間である以上「人権」を持ち、男性と同じだけの社会的役割と物資を与えられてもいいはずだと主張した。

それまで奴隷として無理やり移住させられ、社会的な冷遇を受けていた「黒人」も声を上げた。「人権」を掲げて上位者に対して復讐を成し遂げたヨーロッパ市民たちは、まさか自分たちが創り上げた物を黒人によって利用されるとは夢にも思わなかっただろう。

そこから「老人」「子供」「障害者」「LGBT」……時には本人以外が声を上げるという「代理闘争」的な面も帯びながら、弱者闘争はどんどん重箱の隅をつつくが如く「次の弱者」を求めた。

より少数で、より理不尽で、より持たざる者こそが「人権」の恩恵を一身に浴びることができるからだ。

恐らくだが、皆薄々「人権」システムのおかしさに気付き始めているはずなのだ。「より弱い物こそが恩恵を受けられる」この社会が健全であるはずがない。

しかし、社会はもう止まれない。なぜならば「人権」を否定してしまえば社会のシステムはまた根底から覆ることになるからだ。「人権」を否定することで今の社会に蔓延っている理不尽な問題は解消することができるかもしれないが、その新しい社会において自身の安全が保障されるとは限らない。

社会が明らかに狂ってきているのに、もしくは初めから狂っていたのに、「自分には関係ないから」「自分はまだ無事だから」と見ないふりをしている。それが現代社会の正体なのだ。

しかし、今まさにこの狂った社会の歪みによる被害を一身に受けている存在がいる。

そう、「弱者男性」だ。

「弱者男性」は持たざる者である。無知で、無力で、自身で物資を手に入れることすらおぼつかない、間違いなく「弱者」だ。

しかし、弱者こそ優位に立つことができるはずの現代社会では、弱者男性はなぜかそのシステムの恩恵を受けることができない。

なぜならば、弱者男性はオリジンで弱者だった訳ではなく、この「弱者闘争」に敗北したことによって隅に追いやられ、力を失ってしまった存在だからだ。

例えば「女性」が声を上げていなかったら? 弱者男性は補助的な役割に徹していたかつての「旧女性」の助けによって救い上げられていたかもしれない。

「子供」が、「老人」が、「障碍者」が、真の意味での弱者だった時代では、弱者男性も「でも自分より大変な人がいるんだ」と彼らを支えるような役割に自分を見出すこともあっただろう。

しかし、力関係がひっくり返った現代では、彼ら「元弱者」は皆「弱者男性」を置き去りにしてしまった。

社会システムの恩恵を一身に受け、より優位な立場へと昇り詰めて、弱者男性などには目もくれなくなってしまった。

「弱者男性」は救われない。

「弱者男性」を救い上げるということは即ちこれまでの「弱者闘争」の否定につながるからだ。今ようやく「弱者」からのし上がって「人権」渦巻く社会の中で優位に立つことができた「元弱者達」の踏み台となっている弱者男性を彼らから取り上げるということになってしまうからだ。

弱者男性は、自然状態で弱者なのではない。あくまで「人権」という虚構の末になぜだか優位に立つことができた「元弱者」達に踏みつけられた結果弱者の位置まで追いやられてしまった、いわば「人工弱者」なのだ。

弱者男性は救われない。

「人権」によってのし上がることができるのは、旧身分社会において「弱者」とされた、いわば「旧弱者」のみであり、弱者男性は人権社会によって生み出された「新弱者」であるからだ。

弱者男性が救われるためには。かつての「人権」と同じく現在の上位者との関係性をひっくり返すほどの大いなる新たな発明と、新たな価値観で彩られた新しい社会が生まれることをただひたすら期待するほかないだろう。

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