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言いたいことを言え過ぎちゃうこんな世の中も、それはそれでポイズンなんじゃないだろうか。

本を書いています。 Vol.25

昨日もまた、真っ赤な炎が轟々と燃えていた。

そんな光景を対岸から呆然と眺めながら、世に蔓延する「強制的に共感を押し付けようとする意思」の恐怖を感じていた。

自分と「同じ」であるべきだという前提に立ってしまっている多数の圧力。相手は自分とは「違う」のだという意識は、そこにはないのだろうか。

いろんな意見があってしかるべきだ、という意識の欠如。つまりは多様性を認めようという意識の欠如。そんなこともあるのかもしれない。本当はどこにも実在しない「正解」なんかに騙されず、ときには「中庸」であることも大切だ。

パワハラも然り。5年や10年も歳の差があれば、自分とは「違う」のだということを認めるべきだ。「自分たちはこうやってきたんだから、お前たちも当然こうするべき」という傲慢さ。

時代なんて簡単に変わる。それと同時に自分も簡単に歳をとっているのだということを、認めること。自分と相手は「同じ」じゃない。ただし、どちらにとっても良識は大事だけど。

このような場合、「共感」よりも「差別」の方が正義になることもあるのかもしれない。

「みんな同じじゃなきゃいけないんだ」という強制的な共感。

「みんな違うんだから、いいじゃない」というポジティブな差別。

(※ここで言う「差別」とは、単に差をつけて区別すること。いわゆる差別行為を指すものではないことを強調しておきたい。「共感」と「差別」の関係性については、拙著「面白い!」のつくり方 の中で詳しく解説している。「面白いとは何か」をテーマにした本なので、この投稿とは全く異なる言説なのだが、共通する部分も多い)

前者は「同調圧力」、後者は「多様性の許容」と言い換えてもいいかもしれない。自分の中の常識を押し付けようとする人が、同調圧力を生み、同調圧力に屈するのだ。

そして、ここに「正義」の逆転現象が起こりうる。

「共感」が必ずしも美しく正しい意識であるとは限らない。もしかすると、戦争の原因もそんなところにあるのかもしれない。

この世界に「好き放題言っても大丈夫そうな危うい舞台」ができてしまったこと。でも、それはただの勝手な思い込みだ。「自由」や「権利」の意味を履き違えてはいけない。「自由」や「権利」は、振りかざして相手からマウントを取るための道具じゃない。

そんなことを思うにつけ、「世界は本当に良くなっているのだろうか」と考えてしまう。

大事なのは、想像力だ。

自分のことだけを考えるのではなく、「それを言われた相手はどう思うのか」「それを言っている様子を見たまわりの人はどう思うのか」をよく考えること。

そんなことは極めて月並みな話だし、誰もが子どもの頃に習ったはずなのに、大人になったらみんな堂々と忘れて自分本位に振る舞ってしまう。

ハラスメントもいじめも炎上も、根本の原因はそんなところにもあるのではないだろうか。

ときには「何も言わない勇気」も必要だ。

それでも何かを言いたいのであれば、そこには「謙虚さ」「敬意」がなければいけないと思う。


…なんて、自分だってこの場で好き放題言ってしまっているのだけど。

そんなことを考えて、昨日こんなツイートをした。

言いたいことを言え過ぎちゃうこんな世の中も、それはそれでポイズンなんじゃないだろうか。



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Photo by Matt Hearne on Unsplash

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