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日本財団の研究4 統一教会の日本宣教―キリスト教工作と立正佼成会―

これまでのおさらい

皆様、こんにちは。「統一教会との関係、何が問題か。政治家7つの大罪について」は、大変ご好評をいただきました。

統一教会と政治との関係は、そもそもどのような問題なのかを整理した記事です。その論点に斬り込むためには、そもそも統一教会とはどのような組織なのかを知る必要があります。

上の記事は、当連載における統一教会研究の副産物でもあるのです。

今回が統一教会編の4回目ということで、これまでの「日本財団の研究」統一教会編をいったんおさらいしてみます。

1では、笹川良一の宗教人脈を概観しました。そして、笹川と関係が深い統一教会の教義を解説し、その実践の本質が信者の性管理にあること、それが政界工作の鍵になっていることを概説しました。

2では、統一教会の歴史を概観し、その転換点が1955年の梨花女子大学事件なる乱交事件にあること、その過程で韓国の軍部・軍事政権と密接な関係が出来たことを説明しました。統一教会は事実上、韓国政府による諜報機関という側面があるのです。

https://note.com/ishtarist/n/n9c62351ad933

3では、統一教会とは単なる宗教団体ではなく、軍需産業・輸出入・販売・管理・訓練組織を兼ね備えた、事実上の民兵組織でもあることを明らかにしました。

これらの記事を興味があるものだけお読みいただいても大丈夫です。ただし、1から順番に読んでいかれた方が、理解しやすいのではないかと思います。

今回は、統一教会日本支部がどのように立ち上げられたかを解説します。日本支部が統一教会の世界的活動を支えるほど大きな組織になるためには、重要な契機が二つありました。立正佼成会からの不可解な大量入信と、笹川良一による庇護でした。

密入国者・西川勝の日本宣教

統一教会の日本支部は、ある1人の宣教師から始まりました。

その宣教師は西川勝と名乗りましたが、実は韓国から密入国した人間で、本名は崔奉春、あるいは崔翔翊と言います(以下、日本名の西川で記述します)。西川氏が韓国軍の諜報部出身という噂もありますが(『仮面のKCIA』)、裏付けは今のところありません。

また、西川氏以前にも日本宣教を試みた人間がいるようですが、詳しい記録は公式には残っていません。

日本で育った西川が、韓国で統一教会に入信したのは1956年だと思われます。原理を聞いて感動した彼は、自分が生まれ育った日本宣教を申し出て、さらに1年間の原理学習を行いました(西川先生の宣教伝とそれに対する師観のコメント)。

当時、日本と韓国の間には国交がなかったため、日本宣教は密入国を意味していました。西川が釜山から密航船に乗り込んだのは1957年7月15日、小倉港に入港したのが17日でした(日本統一運動史)。しかし、上陸許可は下りず、広島県の吉浦刑務所に収監されました。

130日の実刑の後、韓国に強制送還されるところを、断食してわざと病気になり、下関の光風園療養所に入れられることに成功します。そして、療養所からの脱走に成功したのです。翌1958年4月中旬のことでした。

西川は知人を頼って日本中を転々としますが、最終的に東京・高田馬場の雄鶏舎という時計店に住み込み、セールスしながら伝道活動をすることになりました(『カルト』の正体)。

雄鶏舎で初めての礼拝を行ったのが1958年10月2日で、参加者は、西川を除いて4名。この日をもって、統一教会日本支部が発足したのです(日本統一運動史)。

キリスト教への工作と矯風会館

日本伝道の初期に統一教会が狙っていたのは、既存キリスト教への工作でした。

話は遡りますが、西川が療養所から脱走後、東京に落ち着くまでに大阪と名古屋の在日韓国人クリスチャンに近づき、統一教会への改宗を促していましたことも分かっています(日本の狂気)。

また、元修練会会長・田口民也は、当時(おそらく1960年代後半)、キリスト教に対する工作を徹底して教育され、また自身も実践していたと述べています(六マリアの悲劇・真のサタンは、文鮮明だ!! 原理からの回復)。パン屋でタダでもらってきたパンの耳をかじって飢えをしのぎつつ、キリスト教の信者や牧師たちに伝道活動をしたのです。

しかし、キリスト教工作は、少なくとも伝道初期にはほとんど成功することがありませんでした。それも不思議ではありません。サタンがエヴァを誘惑して姦淫し、エヴァがアダムと姦淫したから人類にサタンの血が入ったという統一教会の教義は、既存キリスト教からすると異端中の異端だからです。

実際、田口氏は明石市のバプテスト教会の牧師に伝道したのですが、原理講論を読み込まれたあげく「たいしたことない」、「バルトも言ってるよ」と反駁されたと語っています。

現在の視点から見て興味深い事実は、雄鶏舎が手狭になった後に、統一教会が伝道活動を行った場所が、大久保の「日本キリスト教婦人矯風会館」だったことです。統一教会の公式の運動史に、矯風会館の前での記念写真が残されています。

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