日本財団の研究 2 統一教会とKCIA なぜカルトが国際政治の中枢に食い込めたのか
前回までのおさらい
https://note.com/ishtarist/n/n1b4ae5bc15b1
政治と宗教の癒着の根源に迫る「日本財団の研究」、第二回です。
前回の記事では、戦後日本最大のフィクサーの1人、笹川良一の宗教人脈の概略を俯瞰しました。また統一教会の教義を説明し、その宗教実践の「本質」たる血統転換について説明しました。
今回の記事では、統一教会の歴史を概観し、淫蕩な小規模カルト集団から、わずか十数年で世界政治の中枢に食い込んだ謎を追っていきます。
統一教会の歴史
統一教会前史
まず、統一教会の歴史を簡単におさらいします。
教祖・文龍明(後に文鮮明と改名)は1920年、日本統治時代の平安北道定州郡で生まれました。19歳の時に内地に渡り、早稲田高等工学校に在籍し、卒業後は鹿島組で働きます。
1944年、一人目の妻・崔先吉※と結婚。
※韓鶴子は3番目の妻
終戦後、金百文の「イスラエル修道院」という新興宗教で補助引導師になります。「血分け」を教義とする、混淫派と呼ばれるキリスト教異端派の1つでした。文鮮明の「創造・堕落・復帰の原理」は、金百文の論理をそのまま盗用したものだという指摘もあります(『六マリアの悲劇』p.227)。
1948年、妻をソウルに残して北に向かった文鮮明は、平壌で社会秩序紊乱罪で逮捕されます。その理由は、自分が居候し伝道活動をしていた家の人妻と、夫と子どもがいる部屋の隣で同棲生活を始め、「復帰原理を実践」し、さらには結婚騒ぎを起こしたからでした(『六マリアの悲劇』 p.44)。
1950年、朝鮮戦争が勃発し、文ら囚人は国連軍に解放されました。避難先のソウル・プサンで布教活動を行い、少しずつ信者を獲得していきます。財政的基盤はまだ確立されておらず、信者との共同生活は極貧を強いられていました。
文龍明から文鮮明に改名したのはこの時期です。
また、女性の信者との「復帰実践」という名の乱交騒ぎを頻繁に行っていたため、住居や教会を破壊しては追い回す妻・崔先吉から、文鮮明は逃げ回る日々でもありました。
梨花女子大学事件
1954年5月、文鮮明らは「世界基督教統一神霊教会」を発足させます。観光名所のブロマイド販売で最低限の財政基盤を確立し、信者が少しずつ増え始めました。
その頃、韓国の名門女子大・梨花女子大学から5名の教授が入り、後に教授に勧誘される形で14名の学生が入信します。事態を重くみたミッション系の梨花女子大学は、学生らを退学処分にし、捜査機関に調査を要求しました。
1955年7月、文鮮明と主要な幹部が逮捕されます。容疑は兵役拒否ですが、それはいわば別件逮捕というべきもので、捜査内容はすべて混淫関係の有無でした。
結果的に、文鮮明は2ヶ月半後の9月下旬に釈放されます。それは、混淫関係がなかったためではなく、「被害者」女性が告訴せず、また関係者全員が偽証したためでした。(『六マリアの悲劇』 p.114-124)
日本での布教活動~米国進出
梨花女子大学事件によって韓国国内での布教活動がしにくくなった統一教会は、日本での布教に力を入れるようになります。
ここから先は、後に詳述するので、年表形式で先取り的に要約します。
上の年表からわかるように、統一教会創設からわずか十数年で、世界政治の舞台に立ち、それから数年で米国中枢にまで食い込んだことがわかります。
カルトが国際政治に食い込んだわけ
梨花女子大学事件以後、統一教会はどのように変わったのか
淫蕩の少人数カルト集団が、どのような「踏切板」を使えば、世界政治の舞台に踊り出ることができたのでしょうか。
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