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どっこい生きてた!? 生存説あれこれ

源義経は密かに奥州を脱出して大陸へ渡り、チンギス・ハーンになった!」

かの有名な「義経=チンギス・ハーン説」です。

明治中期から広がり、大正13年(1924)に小谷部全一郎著『成吉思汗ハ源義経也』がでると版を重ねた。最初はシーボルトが『蝦夷志』などを参考にシーボルト著『日本』で論じたが、それに影響を受けたウィリアム・グリフィスや手塚律蔵の書を参考に末松謙澄が英国ケンブリッジ大学に留学中にロンドンで英文で出版した。それを下敷きに刊行された小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』が広く知られるようになった。この説を流布させるのに大きな役割を果たしたのはシーボルトであった。

Wikipediaより

義経『生存説』は明治以前から存在し、

●正徳2年(1712年)義経は衣川で死なず、蝦夷地に脱出し義経は神として崇められつつ蝦夷のどこかで生存し子孫はアイヌの棟梁になった。
●享保2年(1717年)義経は蝦夷に脱出したあと、当時韃靼(中国大陸地方)を支配していた金国に入り、皇帝の章宗から厚遇され子孫も栄えた。
●天明3年(1783年)義経は蝦夷から韃靼に渡った。子孫は繁栄しやがて「清国」を建国した。
●明治18年(1885年)義経は蝦夷から韃靼を経てモンゴルに入り成吉思汗となった。

Wikipediaより

などなど、少なくとも四種類の『生存説』が語られています。
一見荒唐無稽とも思えるこの説ですが、根拠となる言い伝えや史跡もあり一概に妄想とは片づけられない面白さがあります。

そんな『生存説』ですが、義経だけではなく他にも複数語られています。
それらをいくつかご紹介しましょう。


「安徳天皇」

源平合戦のクライマックスで壇ノ浦に入水したとされる、歴代天皇の中で最も短命だった天皇です。
壇ノ浦で入水せず、平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説があります。

●青森県つがる市木造町天皇山に落ち延びた
●摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に逃れ翌年崩御した
●因幡国に逃れて10歳で崩御した
●鳥取県八頭郡八頭町姫路に落ち延びた
●鳥取県東伯郡三朝町中津に落ち延びた
●阿波国祖谷山(現在の徳島県三好市)に逃れて隠れ住み同地で崩御した
●土佐国高岡郡横倉山に隠れ住み同地で崩御した
●対馬に逃げ延びて宗氏の祖となった
●肥前国山田郷にて出家し43歳で死去した
●薩摩国硫黄島(現在の鹿児島県三島村)に逃れた
●大隅国牛根麓にて13歳で崩御した


「明智光秀」

本能寺の変で織田信長を討つも羽柴秀吉に破れ、逃亡中に落ち武者狩りにあい討死したとされています。

しかし実は死んでおらず、「天海」と名を変え徳川家康に仕えたという「光秀=天海説」が語られています。


「石田三成」

西軍の一人として関ヶ原の戦いに参戦するも敗北し、京都六条河原で処刑されたと言われています。

西軍に内通していた津軽為信が米沢から秋田を通して逃亡を助けたという話があります。


「淀殿(茶々)」

豊臣秀吉の側室。大阪夏の陣にて息子である豊臣秀頼らと自害したとされています。

●大阪城陥落時に秋元長朝(上野国総社藩主)の元に身を寄せたという伝承があります。
●豊臣秀頼らと薩摩に逃げたという話もあり。


「豊臣秀頼」

豊臣秀吉の息子。大阪夏の陣にて母である淀殿らと自害したとされています。

真田幸村(信繁)の助けで薩摩に逃げたという話があります。
「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡が当時の京で流行ったとか。


「真田幸村(信繁)」

「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評される戦国武将。大阪夏の陣にて討死したとされています。

豊臣秀頼のお供で薩摩に逃げたという話があります。


「天草四郎」

島原の乱の最高指導者。一気軍を率いて原城に立てこもるも幕府軍の総攻撃にて討死したとされています。

討死したのは替え玉だったという話があります。


「吉良義央」

忠臣蔵の敵役として有名な吉良上野介その人。赤穂浪士に討ち取られたとされています。

津軽信政や津軽政兕が山鹿政実と共に吉良を救出したという話があります。


「西郷隆盛」

維新三傑の一人、西郷どん。西南戦争にて自害したとされています。

西南戦争後、中国大陸に渡ったという話があります。
その後、明治24年(1891年)にロシア皇太子(後のニコライ2世)が来日する際、西郷隆盛も一緒に帰国するという噂が流れたとか。


今回は以上です。
簡単にではありますが『生存説』のご紹介をさせていただきました。

『生存説』が生まれる背景には「判官贔屓(ほうがんびいき)」が関係しているとも言われています。

判官贔屓(ほうがんびいき)とは、第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」心理現象を指す。「判官」の読みは通常「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは伝統的に「ほうがん」と読む。

Wikipediaより

弱い立場の者、非業の死を遂げた者に対する憐みの心から『生存説』が語り継がれるようになったのかもしれません。

ちなみに私はいくつかの『生存説』は事実だったのではないかと考えています。そのお話は次の機会にしましょう。


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