火を怖いと思った

先日、「火を御している人が傍にいるだけで、人はものすごく安心感を得るのではないか?」
と思った出来事があった。

それは、寛永寺さまにちゃんとお参りをしたことがなかったのでお参りしてみたときのことだった。
お線香に火をつける炉のようなものがあり、火はその炉の低いところで燃えていて、お線香を持った手をその炉の中に入れるような形で火をつけるような仕組みに見えた。私のやり方が間違っていたのかもしれないが、その火にお線香の束を握った手を近づけたとき

怖い!

という気持ちがワッと湧いてきた。
そこで初めて、いつもお護摩のときは室内で大きな火が上がっているというのに、まったく怖さを感じたことがなかったなあと思い至ったのだった。

お護摩に関してはそれぞれのお寺のお考えやお寺の構造などによって、参詣者と火の距離はそれぞれ異なっているようだ。火の温度をほとんど感じないくらい距離が離れている場合もあるし、燃え盛る火の中に直接自分の願いごとを書いた護摩木(ごまぎ)をお供えするため、極めて近くまで火に近寄る場合もある。
私がいつもお参りしている府中の普賢寺さまでは後者のスタイルをとっていらして、最も近いときでいうと火と自分の距離が20〜30cmくらいになっているのだが、不思議と不快な怖さを感じたことはなかった。子供が火を見て「わ〜!」と思う感じの、強いて言えば花火やキャンプファイヤーなどを見ているときに近い感じの火フィーリングが湧き起こっている。
寛永寺さまで接した火はそのときと比べ物にならないほど小さな火なのに、私はお線香をつけるときに「怖い!」と感じたのだった。
そこで初めて、火を御す人がいること自体が、強い安心感をもたらすのではないかと思ったのだ。

火に関する記憶をたどると、父が誕生日ケーキや花火用のろうそくにライターで火をつけたり、水の入ったバケツの中で遊んだあとの花火を適切に消火したりする姿に安心感を感じていたことが思い出される。大人になった今も、息子の誕生日ケーキのろうそくに火をともすときなど、なにかしら火をつける場面では夫が火をつける役をやってくれていて、そのとき私は弱く小さなものとなり、夫にすべてを任せているような気持ちになる。火の記憶をたどるとき、不思議と母の姿は思い出されない。

ここでもまた不思議に思うのだが、よく考えてみると、現代の日本の家庭において最も火を操っているのは、多くの場合女性だ。私もほとんど毎日ガスコンロに火をつけて料理をしている。でも不思議とその火には怖さをほとんど感じていない。それ以前に、火を火であるとことさらに意識することもなく火を使っているなと思った。それなのに、お線香に火をつけるときには怖さを感じるのだ。

先日、棒仲間(棒のことを一緒に考えている友達)とやりとりをしていて、
棒が本当に棒として役立てられているとき、棒は棒であることが意識されない
という話題で盛り上がったのだが、火もそれと似ているのかもしれない。人間の延長でありかつ人間の肉体の限界を超える、人間に益をもたらすものとして火が活かされるとき、火は恐怖の対象となる異物ではなく、人間に利益をもたらす道具となって、人間の肉体を人間の願いの延長線に沿って拡張していく不思議な存在になるのかもしれない。

ちゃんと台所に立って火を使った料理をすると、ほぼ例外なく心身ともによい状態になると感じているのだが、それもこのことと関係しているのかもしれない。私は煙草は吸わないのだが、もしかしたら愛煙家の人たちは、タバコ休憩で一本火をつけるたびに、ミニ護摩 みたいな感じを得ているのかもしれない。そして、消防士さんのように火に対する意識が常人と逆方向にある人たちは、また違ったものを火から受け取っているのかもしれない。


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