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『ヤエル49』 第五章

◆夜の森 

 気がつくとあさみは、夜の森の中で倒れていた。

 まだ、後頭部に痛みがある。落葉は夜露に濡れ、眠る直前だったので服はラフな寝間着姿のままだ。

 森の中で、木々が部分的に少ない、平たく比較的開けた場所。
 満月の月明かりがこの一帯を照らしている。周囲には――あさみの私物であるナップザックや、ライトが転がっている。

「わたし……いったい……」

 あさみにはまだ状況がつかめていない。
 ここは神鳥島の山の森の中であることは確かなようだ。立ち上がり、歩こうとするも、一時的に外に出るためだけに履いたサンダルのため、足元もふらついている。

 またケータイ電話の音がする。
 あさみはふっと我に返った。
 ――自分はケータイ電話の音と停電につられ、外に出た事。そして自分は今、何者かに拉致されて森の中に放置されている事――。

 おもわず身をかがめ、恐怖で震えるあさみ。
 あさみの胸の奥から、なにかえずくものを感じる。あさみはそれを全力で抑える。

 元々あさみは、喘息の持病を持っていた。えずく気配を感じると、あさみはとにかく、深く、長い息を吸って吐く事を心がけている。

「落ち着いて……深呼吸を……」

 その時、森の奥から、「ぐぁぁああがぁぁぁああああ」という咆哮が森一帯に鳴り響いた。あさみはその声の方向を見る。

「何……なんなの? ……ヌシ?」

 あさみは恐怖で泣きそうになりながら、その場でうずくまる事しかできない。

 しばらくして咆哮の声が止むと、あさみのケータイ電話の音も止んでいた。

 混乱しつつも、あさみは恐る恐る、周囲に散らばっている自分の荷物の一つ一つを取りに行く。
 まずナップザックを取り、配電盤を見に行ったときに持っていた懐中電灯を手に取る。
 懐中電灯は明かりをつけると、電池が弱まっていたのか、頼りないほどの光しか出ない。
 それでもその光を頼りに、ザックの中の物を確認する。日常使う道具がそのまま詰められているのを確認すると、あさみは次に、そのライトで周囲を照らしてみた。

  光の及ぶ範囲は狭く、限定的だが、風のない森の中で動くものはない。
 だが、何気なく光を照らした奥の方で、地面が盛り上がっている。

 あさみは森林官としてこの山の森を見続けているが、あんな妙な地面の盛り上がりは見かけたことがない。

「……?」

 あさみはそれを、じっと見る。

 不自然な茂みの盛り上がりの中に、何かが光った。

 ケータイの音だ。
 そしてその光は、あさみの持っていたケータイの光だ。

「えっ……」

 あさみは恐怖で、ただ立ち尽くす。

 すると、その盛り上がったしげみは、徐々に……こちらに向かって来た。

◆石

 石造りでできた、謎の空間。天窓にはスタンドグラスが飾られており、その光が地面を照らしている。
 そこに3人のシルエットーーヤエル49の本体・ウギ、チハギ、ホークの三者の姿が浮かんでいる。

 その3人は、机を囲んで中央に鎮座している物体を眺めている。

「子どもたちは仕事に入ったか」
「然り。手筈はすべて整えてある」
「13番目の子は、最も困難な方法を選択した。最も愚かで、しかし美しい道」
「失敗したら焼かねばなるまい」
「然り。そのための手筈も……すべて整えてある」

 すると、机の中央に鎮座している物体――どう見ても石にしか見えないが……それがわずかに震えだす。3者はその石に耳を傾ける。

 その顔――顔面は皺だらけで、目は落ち込んで黒い穴が開いている。

「かの島に、雨が――?」

◆災害警報発令す

 午前1時。島の南側の集落が不意にあわただしい。
 真夜中にもかかわらず港には大型フェリー(自衛隊と契約している民間のフェリー)が接岸すると、多くの自衛隊員が上陸していく。
 自衛隊員の小型バギーがサイレンを鳴らしながら、島内を走る。

「災害警報が発令されました。神鳥山中腹付近にて、大規模な地滑りの危険性があります。該当地区の皆さんは、所定の避難所に速やかに避難をお願いします……」

 深夜、起こされた島の住民が不審に思いながらも自衛隊員の指示に従い、誘導されていく。
 山に向かう山道(あさみ達のタクシーも通った道)に非常線が張られていく……。

 道の端に自衛隊のジープが止まる。その道は既に、カラーコーンで道がふさがれていた。
 山肌が地滑りを起こし、南の集落まで及ぶかもしれないとのことで、山は立ち入り禁止になったのだ。雨は先ほどから振りだしたが、隊員たちは支給されていた装備品のレインコートを手際よく羽織ると、淡々と仕事をこなしていく。

◆自衛隊員タケナカ

 すでに先着した5、6人の隊員が道をふさぐ作業をしており、脇には交代休憩用の簡易テントが張られ、隊員たちがテーブルに地図を広げる。
 自衛隊員のタケナカが地図を眺めていると、部下の一人がやってきた。

「一時間前、タクシーが1台、この道の向こうの山小屋の森林官事務所に泥酔した三名の乗客を降ろしたとの事ですが……」
「その山小屋の事務所に連絡は?」
「全く電話に出ません」

 タケナカはそれを聞くと、すぐさまトランシーバーで本部と連絡を取る。だが――。

「必要がない、というのは――?」

 タケナカはジープで山道を行き、事務所にいる3人を避難に向かおうと思ったのだが、本部のからの許可は下りなかった。

「班長……おかしくないですか?」

 タケナカと親しくしている部下の一人が不穏な空気を察し声をかけてきた。タケナカも声を潜めながらそれに同意する。

「通常なら人命救助が最優先だ。中腹の山小屋ならジープで30分もあればたどり着ける。だが、人命救助はおろか、隊員であっても入山は一切許可されないとのことだ」
「……地滑りって、本来大雨の後におきますよね。現時点で地滑りが発生するという根拠は……」

 部下が声をひそめてタケナカに話す。
 すると、小隊長を任されている40代ベテランの一等陸曹が簡易テントの中に入ってきて、タケナカの所にやってきた。

「命令にただ従うまでだ」

 そういってタケナカたちに声をかける。タケナカと部下は敬礼すると、それを手で制し、「時々、こういう事がある」と言いながら、小隊長はテントの中の椅子に腰かける。

「何かは起きてる。だが、何も起きてない事にする。何かを起こさないために。それもまた仕事だ」

 小隊長は地図を指さす。

「それに、地滑りは島の南側で起こるとの報告だ。山小屋の方面は問題はないだろう。」
「しかし、調査隊も派遣せず、ただ立ち入りだけ禁止するというのは……」「考えるなとは言わない。ただ、現場の少ない情報量だけで推論を推し進めるな。」

 小隊長は無表情で、タケナカのそれ以上の言葉を制した。
 離島の田舎道、時刻も深夜だ。集落では該当地域の住民が避難している。こんなところに人が来るわけがない。

 普段であれば勤務中にこうした議論などタケナカは絶対にしないが、今日はとにかく不可解だ。いつ終わるとも知れない上、誰のために行われている封鎖なのかも、よくわからない。

 それでも、分からなくてもやる。それも仕事の一側面かもしれないと、タケナカは自分を納得させようとした。

◆異様な4人組

 すると、一台の車両がやってくる音がする。
 タケナカはテントの外に出る。見れば、自衛隊の――しかし、タケナカが所属する隊のものではない車両だ。

 目の前で止まると、中からタケナカより遥かに階級の高い(陸将補)人物が現れ、車両の中に向かって敬礼をした。
 普段だったら、まず現場になどやってこない階級の人物の出現に、タケナカは目を見開いた。

 その後、車両から出てきたのは……異様な集団だった。

 男3人に、明らかに少女のような者が一人。
 だが、男3人はそれぞれ身体から様々な管や鉄幹、突起物等があるものを身に纏っている。
 少女の方も、コートを羽織っているが、よく見ればおよそ少女の身体とはかけ離れた、不自然なシルエットにも見える。

 自衛隊の事務官たちが整列する中、隊長格らしい、プロテクターをつけた4人の中で背の低めの男が写真付きの書類を並んだ事務官に一人一人渡す。(ヘリコプターの中でサインしていたもの。「国際条約に基づく軍事学術調査許可」「国際条約に基づく武器の使用許可」等。)

「じゃ引き続きそんな感じで」

 と、男は階級の高い自衛隊員に声をかける。隊員たちは深深と礼をし、さらにタケナカらに目で合図する。
 自然と、タケナカたちは、その4人を非常線の中に通す。通り過ぎる瞬間、殺気とも、覇気ともとれる異様な感覚を、タケナカは感じた。

 まるで、別世界にいる人間たち――。

 4人は、見た目こそゆったりとした足取りに見えたが、実は相当速く移動しており、気がつけばもうどこにも気配すら感じなかった。

 「あ……あの……」

 タケナカは彼らを乗せた車両が去ったのを見て、テントの外に出て隣で一緒に立っていた小隊長に声をかける。

「い、今の……あれは……」

 すると、自分より二回りも歳が上の小隊長はため息交じりに呟いた。

「言ったろう。現場の少ない情報量で推量をするんじゃない。目で見たものがすべてじゃないんだ。」

 それ以上の質問は、おそらくしてはいけないのだろうなと、タケナカは思った。それが自分の仕事なのだろう。そして、自分のすべき仕事は、先ほどの出来事を全力で隠す事。

 タケナカは無言でうなずいた。自分の領分では推し量ることのできない、なにか途轍もないものというものが、はっきりとわかった。

 夜が明けるまで、自衛隊員たちは、姿勢を崩さず、立ちつくすことになるだろう。
 
 タケナカは何も考えないようにしながら、全力で立っていた。

◆あさみの危機

 あさみは、首を絞められていた。

  盛り上がった茂みのようなカタマリから、屈強な両腕が飛び出ており、それがあさみの首に食い込んでいる。

「あ……あ……」

 腕の力だけであさみは持ちあがっていた。反射的にあさみはその掴まれている首に手をやり、引き剥がそうとするが、とても女の力では引き剥がせそうにない

「ごおっ、が……」

 あさみは苦しみながら、その姿を目にする。

 その茂みのカタマリは、ヒトだった。

 フード付きのコートのようなモノを羽織っており、そのコートには大量のダミー草が編みこまれている。サバイバルゲームで背景に擬態する特殊な服があるが、まさにそれだ。

(しかし、その服の裏……腕を伸ばしたところから見える服の裏側には、さまざまなものがが数十個ぶら下がっていた。ケータイのストラップ、指輪、ピアスといった、女性の身につけていたであろう小物たちが、お互いに擦れてシャラシャラという小さな金属音を立てる。それはユビナガにとって、女たちから奪い取ったいわば「戦利品」だ……)

 今この光景を遠くから見れば、緑の毛におおわれた直立した楕円が、両手を前に突き出しあさみの首をしめている、そんな風に見えるだろう。

「なん……で……」

 あさみがうめくように言葉を発する。
 相手の表情は見えない。

「……『シンリンカン』、『ヤマゴヤ』『トマル』」
「……えっ」

 小さな声だが、想像以上に甲高い声が、あさみの耳元に入ってくる。

 それが相手の声と気がついた瞬間、不意に、投げ飛ばされた。
 あさみは地面に弾むように転がり、持っていたナップザックは身体から離れた。全身が痛い。それ以上に、締められた喉のせいで、声が、すぐに出ない。
 距離を取ってあらためて、襲ってきた男を見る。
 全身をダミーの草で敷き詰めた服に、顔もフードで隠した、異様な男――。

 男は、あさみが手放したナップザックを拾い上げる。
 その手。拾い上げる、その指。

「指……」

 中指が、異様に長い男。

 「ユビナガ」だ。
 あの時、バーで指を、身体を震わせていた男だ。

 身長は180cmくらいだろうか。体格差では、小柄なあさみでは、到底太刀打ちできそうにない。あの指の長さも、そうした彼の人並み外れた力の象徴にも思える。

 あの力は、人を殺し慣れている。暴力をふるい馴れている。ためらいと言うものを、一切感じない、とあさみは感じた。

「どう、して……」

 あさみは精一杯勇気を振り絞り、へたり込みながら言った。

「どうして? なんで、私を……?」

 目が合う。
 目からは、虚無。何も感情は読み取れない……そして目が合っているうちに歪んだ笑みのような目になる。あさみは目をそらす。

「『ジョウシイナイ』『ミッチャク』……『アシタ』『ハヤオキシナキャナーア』」

 その甲高い声で呟いていたのは、あさみたちが話していた会話の一部だ。確かめるように、何度も何度もユビナガはあさみの言ったであろう言葉を繰り返す。

 ユビナガは、あさみの持っていたナップザックをあさると、何かを取り出し、ふたたびあさみの方へ向き、一歩、二歩、歩みをはじめる。

「や、……いや」

 あさみは思わず立ち上がった。逃げなくては。さもなければ、殺される。

 あさみは、ここが森の中だという事も忘れて、とにかくユビナガから離れるために全力で駈けだした。
 ユビナガは、あさみが走り出したあと、ゆっくりとその後を追って行く。 

 一定の距離を保ちながら、ユビナガはあさみを目で負えるギリギリの距離で追いかけてくる。

 あさみは全力で走っているのだが、ユビナガにとっては余裕だった。

「『シンリンカン』……『ワタシ、ジシンガナクテ』『コノシマデ、ヤッテイケルカナーア?』」

 ユビナガはよく通る高い声の、極端なイントネーションであさみを声で煽る。

 あさみはその声に生理的な嫌悪感をあおられながら走る。森を走るには不適切なサンダルで、よろけて滑り、転びながら走る。

 目の前に、低木の茂み。あさみは避けてかわし、逃げる。
 ユビナガはその茂みにまともに突っ込んでくる。ユビナガにとって、この森にある障害物はまるで何でもないかのようだ。

 あさみは次第に、全力移動の疲労で、ふらふらになる。
 胸の奥に、えずくもの――喘息の発作の予兆だ。深呼吸をしなければ。それでも走らざるをえない。

 止まれば、またあの巨大な指を持った手で、その首は締められてしまう。

「グッ、ガホッ、ガホッ……」

 とうとう咳が出てきた。喉が、くるしい。胸に、空気が入らない……。

 自分の身体と言うものはこんなに簡単にもろく、崩れやすいものだったと、今さら思い知らされている。

 そして、体力の限界。

 あさみはとうとう走るのをやめ、そのまま地面に座り込む。

 まずは、呼吸だ。この喉を、この咳をなんとか止めないといけない。ユビナガの気配は、夢中で走り回ったため、分からない。

 地面に座り込みながらも、漏れ出てくる咳を、必死で抑える。深呼吸をしなければ。冷静に、努めて、冷静に――。

 そこに、ポンと何かが投げ込まれた。

  あさみの座りこんでいる足さき数十センチ先に転がるそれは、あさみが普段使っている、喘息の簡易吸入器だ。

「な……」

 ユビナガの気配がする。

 だが、夜の暗さと、草に擬態するコートのせいか、何処にいるのかはわからない。

 おそらく、あさみのナップザックからこれを見つけ出してきたのだろう。だが、なぜそれを、あさみの所に投げるのか。

「私、を……」

 ヒューヒュー音の鳴る喉を少しずつ落ちつけているあさみ。
 発作は、なかなか収まりそうにない。だが、あの吸入器さえあれば、少しは楽になれる。

 「……どう、したい、の……」

 あさみがそう言葉を投げかけると、サーッという音が聞こえ出した。

 雨だ。

 雨に打たれて木々や草が、揺れる。水滴のいくつかが、あさみの顔面を濡らす。雨でぼやける景色の中から、ふらりとユビナガが立つ。

 表情はやはりフードの向こうにあって、わからない。目だけが、ギラギラとあさみに注がれている。ユビナガが、ゆっくり近づいてくる。咳は、とまらない。

 苦しい。

  そしてその苦しむあさみを、ユビナガは一定の距離を保って、様子を見ている。ただ、見ている。

 あさみはユビナガを恐る恐る見る。フードの向こうに、僅かに光が反射して見える目。だが、感情は、一切わからない。

「ゲホッ、ケボッ、ゲホッ!」

 喉が、ひりつくように痛い。
 咳をするたびに、全身が響くように身体が痛い。雨が服にしみ出し、不快感が全身に広がる……。

 もう、限界だ。あさみは吸入器に手をかけ、口にあてる。
 吸入器の霧薬が、喉の奥に届きわたる。あとはゆっくり、落ち着いて、静かに深呼吸をすればいい。

 ……ユビナガは?

 あさみの発作が治まり、あらためて様子を見渡す。
 先ほどまでユビナガが居た場所に、その姿はない…… と、あさみが視線を泳がせた時、今度は背後からだった。あさみは、後ろから羽交い締めにされている!

「きゃぁっ!」

 ユビナガの太い左腕が、あさみの首に絡む。その手の先は、あさみの豊満な胸に滑り込まされる。

「『アト、オッパイガデカイ』『オッパイノハナシハイイデショーモー』『プー』」
「や……あ……!」

 気持ち悪い声を無理やり聴かせるように、ユビナガはあさみを絞めつけながら耳元でささやき続ける。そして、あの中指の長い右手は、あさみのズボンに手をかけていた。

「……!」

 ユビナガは、圧倒的な力を持っている。男と女の体力差、ついている筋力の体格差、なにもかもユビナガの方が上だ。それでも、あさみはもがいた。生理的な嫌悪感。犯される、という恐怖。

 あさみは、とにかく体を動かし、暴れ、抵抗する。地面を蹴りつけ、穿いていたサンダルも脱げ、濡れた地面と落ち葉で足先は土に塗れる。

 サクッ、と右腕に何か感触が伝わる。刃物だ。

 ユビナガは、右手に刃物を持っていた。
 よく研がれたナタだ。
 ユビナガはあさみが暴れたため、ズボンをまさぐるのをやめ、右手にナタを持ち替えていた。
 そのままあさみの服を切り裂こうとし、抵抗したあさみの腕の表面に刃が当たったのだ。

 スーッと、あさみは斬られたショックで気を失いかける。

 だが、流れる赤い血の感触と、斬られた痛みで、ようやく我を取り戻す。

 諦めたら、何もかもおしまい――そう思うと、あさみはユビナガの左腕に噛みついた。少しでも抵抗になればと、決死の噛みつきだった。

 ユビナガの黒く丸太のような腕に、あさみは歯を立てる。
 噛んだ瞬間、ユビナガが意外にも「アッ」という太い声を発し、怯む。その拍子に、ユビナガの右手からナタは落ちる。
 それでもなお、ユビナガはあさみの口から腕を強引に引きはがすと、空いた右手であさみのズボンを掴んでくる。

 寝間着代わりにしていた柔らかな素材のズボンは、すさまじい力で伸びていく。あさみはとっさに、そのズボンを自分から脱ぎ捨てた。ユビナガはバランスを崩し、転ぶ。

 地面が、水のたまりやすい場所でぬかるんでいる場所だったのも幸運だったのだろう。あさみは、なんとかユビナガから離れる。

「……っ!」

 し かし、倒れたユビナガに対してあさみが出来る事。それは、とにかく逃げる事しかなかった。
 下着一枚になってしまったが、そんな事は気にしてはいられない。とにかく、この場を離れなくては。隠れなくては、逃げなくては……。

 あさみは走った。

 味方のいないこの森で、頼れるのは、自分だけだ。自分がくじけたら、死ぬ――腕の痛みを忘れて、あさみは裸足で深淵の森の中を、ひたすら走って逃げていく。

 ユビナガは、あさみのズボンを手にしながら立ち上がると、口の中でぶつぶつと呟いた後、あさみを追ってまたゆっくりと移動し始めた……。


 

 

 

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