僕たちは、しばしば誤って物事を見ている(かもしれない)という話

前々回の記事で、物事や人のことを「どのように見るか」ということを書きました。
僕たちは仕事を含む日々の生活で、それこそ、一日の中で何千回と(数えたことはありませんが)、大小さまざま何らかの判断をして生きています。
だけれども、振り返って思うのは、そうして下した自身の判断について省みることは、すごく意識をしていないと、なかなかできないことなのだと思います。

やっかいな人?

仮に、部内で新しい取り組みを始める際に、必ずと言って良いほど、事細かに具体的な進め方を確認する方がいるとします。
既に詳細が詰められていることもあれば、限られた時間で走りながら考えていくしかないこともあります。
もしかしたら、僕はその方のことを、経験豊富で頼りになるけれども、新しい取り組みに対して批判的な、どうも面倒な人だなあと思うかもしれません。

一方で、その方の言動を異なる見方で解釈することもできます。
例えば、人一倍責任感が強く、仕事の過程と予想される結果に対する説明責任を果たしたいと思っていて、十分に納得するまで理解してから実行したいのだ、とか。
もしくは、これまでの経験から、予め手を打っておくべきリスクを発見していて、みんながより良い結果を手に入れることができるよう、プロ意識を持って発言してくれているのだ、とか。

仕事はできるが扱いづらい人だと思うか、誰よりも責任感とプロ意識を持っているクリティカルな思考のできる人だと思うか、自覚しているかどうかに関わらず、僕たちは選んでいることになります。
そして、選んだ方の見方を通して、その方と関わっていくことになります。
結果として、どちらを選んだかによって、相手との関係の発展の仕方は、きっと違うでしょう。

もちろん、実際はきれいにどちらかのタイプということはなくて、「少し扱いづらくて、慎重で、頑固なところもあるけれど、同時に仕事に対する責任感が強くて、他の人が気付かないプロセスの欠陥を指摘することができる稀有な」人だったりするのかもしれません。

だけれども、相手に対する肯定的な見方をしてみるか否か、の差は大きいと思うんです。

その時、僕たちの内面では何が起こっているのか?

MITの名誉教授のエドガー・シャイン博士は、以下のORJIサイクルというモデルを提唱しています(詳細は、『プロセス・コンサルテーション—援助関係を築くこと—』の第5章)。

ORJIサイクル

僕たちの内面では、自分の外部の出来事を観察し(Observe)、観察したことに感情的に反応し(React)、観察したことと感情に基づいて情報処理して判断を下し(Judge)、それに基づいて他者に対する何らかの行動を起こす(Intervene)、というわけです。
その上で、シャイン先生は興味深いことを述べています。

判断は論理的だが、不正確な可能性のある「事実」に基づいており、それゆえ結論も全く論理的とは言えない可能性があることがしばしば明らかになる。したがって、このサイクルでもっとも危険な部分は最初の段階(観察の段階*)ということになる。そこにおいて、われわれは可能なかぎり実際に何が起こったのかに焦点を合わせるよりも、こうに違いないと決め込んで早まった判断をしてしまう。(*筆者注)

「そんなこと言っても、私が見たことは事実でしょう?」という反論があろうかと思います。
でも、「事実」だと認識したことは(もしかしたら偏った)自分の物事の見方で世界を切り取ったものかもしれないこと、切り取る際にエラーが生じた可能性があること、の二つを意識しておいた方が良さそうだ、ということは教訓として導けそうです。

あらためて、僕自身の学びと教訓

さて余談ですが、僕自身は、冒頭に登場したような方々に大いに助けてられて仕事をしてきました。
例えば、自信を持って提出した案に対して批判的な意見が寄せられると、やっぱりちょっとムカッとしちゃったりすることはあるわけなのですが、「僕が気付かなかったことを、あえて面と向かって言ってくれている」のかもしれないという見方を持つことで、彼ら彼女らとの協働に積極的な意義を見出し、相手に対して信頼感が芽生え、結果的により良いものが生まれ、関係性が深まる経験を何度もしました。
そうは言っても、指摘されて反論した後に、自分の過ちに気付いて謝ったことも何度もあったことを、ここには書いておきます。

いずれにせよ、何かをする時、誰かとコミュニケーションを図る時、僕がする観察(Obervation)には誤りが生じる可能性があることを、肝に銘じておきたいと思います。
そして、おそらく、一生修行なんだと思います。

最後までお読みいただき、どうもありがとうございます。

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