隠す文章なんて書かない(146/365)
昨日こんな記事を書いたのだが、さっきその本人が「ごめんっ」と言ってきた。
どこかで見たのだろう。
僕も「え、見たの…?」と一瞬焦る。
しかし、僕は誰かに見られてはマズイ文章なんて書いていない。
というか、そんなもの絶対に書かない。
昨日の記事もそうだし、それ以外においても。
まぁ見せる前提で書いるわけでもないけど、この時代誰がどこで見ているか分からない。
誰かに向けた文章でも敢えてその人に見せることをしなくとも、今回みたいに本人が見る可能性だってある。
仮にそうなったとしても、その人を不幸にはさせない。
昨日の記事でも、
冷えたまま食べられても、いい気分になるかと言われればそうでもない。
ここの表現を、「冷えたまま食べられたら、嫌な気持ちになる。」と「冷えたまま食べられても、気分は良くない。」と悩んだ末に、上記の表現にした。
細かいけど、そんなところも大事にしているつもり。
確かに人間関係において感じた些細な違和感や、世の中の理不尽に対して僕が感じたことなどは書くこともある。
それに対する僕の考えやネガティブな感情をリアルに綴るときもあるが、意見はしたとしても固有名詞を出したり誰か特定の人を否定するようことは絶対にしない。
何か言いたいことがあるとするなら直接言う。
じゃあわざわざnoteになんて書かずに直接言えや!と思われるかもしれないが、敢えてその人に突きつけることでもないと思うからこうやって書いている。
だからといって見られたとしても隠すわけでもない。
僕の中で昇華したいという思いもあるから書いている。
人にはそれぞれの正義がある。
僕の正義は誰かには理解できないだろうし、誰かの正義も僕には理解できないだろう。
でも、それは当然なことだ。
理解し合うなんて不可能だ。
理解しようとすることはできるが、それでも無理なら「ふーん、そういう考えもあるだ。でも、私はこう思う。」でいい。
相手に理解を求める必要もない。
その正義の押し付け合いが大きくなれば戦争にもなる。
ちょっと話が肥大しすぎて逸れてしまったが、話を戻すと、思っていることでも敢えて伝えたりはしないなんてこと生きていればザラにある。
別に言ったからといってどうこうなるわけでもないこと。
言いたいことを全て言い合える関係も魅力的なのかもしれないが、そんな小さなものを抱えながら生きていくのが難しくも面白くもある。
仮にそれが本人に伝わったとしても、それで関係性が崩れるような浅い付き合いをしているつもりもない。
今回の件だって、それがあったからこそ僕も改めて気付かされる事があった。
しかし、「ごめん」と言わせてしまった以上、直接言わなかったことや文章が伝わりにくかったなど、少なからず僕にも落ち度はあるだろう。
もしかしたら悲観的に捉えてしまっているかもしれないので、一応そんなつもりは全くないことは伝えた。
捉え方なんて人によって様々だ。
反省。
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