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子どもと問う#9 〜語りえないものについては沈黙すべし?〜

子どもと問う#9
〜語りえないものについては沈黙すべし?〜


私は権威に弱い。
「ニーチェが言った」「ハイデガーが言った」なんて聞くと、すっげー!ぜったい真理じゃん!くらいアホ丸出しの感想を持ってしまう。
しかもアホなので、意識高く『論理哲学論考』(byウィトゲンシュタイン)なんて買ってしまうのだが、2ページで挫折する。私はよく本を買うが、多分買っている時が意識の高さのピークなのだと思う。もしかしたら、本を読むのが好きなのではなくて本を買うのが好きなのでは、と自宅の積読を眺めながら溜め息をつく。


それでも諦めきれない。私だって、真理の探究、したい!そんな駄々っ子のような気持ちで哲学対話に参加するようになった。
ちょっと話は逸れるけど、鉄道オタクには、撮り鉄・車両鉄・乗り鉄など、鉄道を愛する活動の中でも様々な種類があるそうだ。
それならば、知を愛する哲学の中でも、読む哲・知識哲・対話哲・書く哲など様々な愛し方があっていいだろう。哲学はそんな了見の狭いヤツじゃないと勝手に信じてる。
さしずめ、その中で言えば私は「お喋り哲」「聴き哲」と言ったところだと思う。読む哲に挫折に次ぐ挫折をした私は、哲学対話に参加するようになって自分なりの知の愛し方をしていると自身に納得させるようにした。『論理哲学論考』は4ページ目まで進んだ。


哲学対話を始めて、私はそんな自分でも嫌気が差すほどの権威主義から逃れられるかと思っていた。フィロソフィーネームを「ニーチェさん」とかにしない限り、ニーチェもハイデガーもウィトゲンシュタインも来ないし、事実、初めて会った氏も素性も知らない人からの目が覚めるような問いに何度も出会ってきたのだ。


しかし、私はまた自分に嫌気が差す。参加者たちの言葉を聞きながら「何を言ったか」より「誰が言ったか」にとらわれている自分に気付くからだ。
前々からこのnoteに書いているMさんやBさんの発言はすごく刺激的で興味深い。善く問うなーといつも圧倒される。けれど、私に嫌なことをする人の発言は何言ってんだかとバイアスがかかる。
端的に言えば、好きな人の発言はより善く聞けるし、そうでない人の発言はそうではないのだ。これは権威主義というより差別だと自分でも感じる。
私は哲学対話を重ねる上で、自身の偏見に気付かされると以前も書いたが、自分の中の権威主義や差別もまざまざと炙り出され突き付けられるのだ。
よく「真に問うと自己や世界の見え方が変わる」と言われるが、私の場合は「自分がどのような色眼鏡を通して世界を見ているかがようやく認識出来る」と言ったところだ。もしかして「まだまだ哲」なのかもしれない。


そんな私が一番、自分自身の差別を実感するのは当然、我が娘に対してである。
娘が哲学対話で言ったことは「なんて素晴らしい問いなんだろう!」とか「5歳なのにすごい!」とか、親バカで済ますには程があるほど全肯定である。
これは知を愛しているのではない。単に子どもを愛しているにすぎない。

更に言えば、私は哲学対話のその時のテーマで、娘を参加させるか否かを勝手に決めている。娘の自主性を重んじたりはしない。
例えば「家族とは」とか「子どもとは」とか、対話が深まって行くにつれ娘が傷つきそうなテーマには参加しない。いわゆるゾーニングである。これは娘に対する差別でもあるし、問いに対する差別でもある。区別かなと思ったけど、やっぱり差別だと思う。
私は愛という名でコーティングされた権力を行使しているのだ。


それでは、権威とは権力とは、差別とはトクベツとは、一体なんなのだろう。


この前、『名前とは?』という哲学対話に私1人が参加した。
これはゾーニングではなく娘がお眠だったため、彼女は自分なりの考えを私に託してお布団に潜った。
娘曰く
名前をつけるってことはね、シールで閉じて隠すことだよ。
私、“おりがみ”好きでしょ。おりがみって、色んな色があるし、キラキラのもあるし、折るのが難しい硬いやつも、ヘンテコなのもある。
でも、名前ってシールをつけたら、全部“おりがみ”。
その“おりがみ”は、これから鶴になるかもしれないし、パックンチョになるかもしれない。でも全部全部“おりがみ”。
私の園リュックの小さいポッケに、いっぱい入ってるでしょ。私が作ったチューリップとか紙飛行機とか。でも、先生たちは何を作っても「娘ちゃん!ここのポッケに“おりがみ”入れとくからね!」って言う」


私は、自分の考えや思考の癖に名前を付けて、それら全てをシールで閉じて隠してしまっているのではないだろうか。


私は権威に弱い。それを「権威主義者」だ、と。
シールを剥がしてみれば、曖昧な記憶や感覚が蘇る。私が支配的な環境で育ってきたこと。それに服従する形でしか生き延びられなかったこと。だから、支配/被支配の関係に身を置くと、それがどんなに危険なものでも奇妙な居心地の良さを感じてしまうこと。

「差別」とシールを貼って閉じたものはなんだろう。
私が自身のマイノリティ性によって、偏見の目に晒されてきたこと。その周囲からの視線を内面化し、自分で自分を罰し続けていること。そんな自分が嫌だからこそ、ウィークネスフォビアがあり「弱者」なんて呼ばれると抗いたくなること。意地で障害者手帳を取ってないこと。医者からお墨付きを得ているのに、まだ受け入れることが出来ず毎月高額の医療費を払っていること。

子どもを「トクベツ」にして、本当は私がそのトクベツな存在にしがみついていること。

哲学対話が楽しい!と言いながら、「対話とは相手と自分が違うということを知ることです」なんて言葉に頷きながらも、本当は自分のことをわかって欲しくてわかって欲しくてたまらないこと。終わった後、あまりのわかり合えなさに絶望し涙を流していること。

それでも、自分自身を他者の考えを通じてわかろうとする営みに、ほんの少し希望を見出していること。

真にわからないから、私には語ること語り合うことが必要な気がすること。まだその辺はよくわからないけど、沈黙しちゃったら、私の脳みそは思考停止するだろうなってこと。

そんな私にとって哲学対話は自己実現ではなくて自己探求であるから、それってやっぱり、孤独な営みにならざるを得ないこと。


こうして、絶望と希望と、わかり合えなさとわかち合いを行ったり来たりしながら、考えたりシールで閉じたりを繰り返し、今日も私は「まだまだ哲」を続けている。『論理哲学論考』は5ページ目まで進んだ。



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