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子どもと問う#7 〜自問と偏見、問題がモンダイなのだ〜

子どもと問う#7
〜自問と偏見、問題がモンダイなのだ〜


さて、この『子どもと問う』も7回目である。
TVドラマで言えばそろそろseason2に入る頃だし、少年漫画なら「俺TUEEEE」になっている頃である。
しかし私の哲学対話経験値が「TUEEEE」になっているかと言えば、全くなっていない。
それは「哲学対話というものは、やればやるほどわからなくなっていくものなのです」みたいな謙虚で殊勝なことでは無くて、単に元々そんなに哲学対話に出ていないのである。

ここまで読んでくださった読者には「え?そうなの?」「哲学対話マスターなんじゃないの?」「じゃあ、どの面下げてこんなnote書いてんの?」と思われそうだが、厚顔下げて書いているのである。


私は哲学対話に参加し始めたときから「賑やかし要員としてお邪魔します」と公言しており、今もそのスタンスは変わっておらず、自分が参加したいときに参加したいように参加している。
だから正直、未だにルールの意味も真にわかっているとは言えないし、いわゆる中の人(?)的な運営側が言う専門用語も独特な言い回しもわからないし、ファシリテーターをした事も無いし、皆さんのご厚意に甘えて哲学対話界の片隅でマラカスとか振ってガヤを飛ばしている感じである。


また、こんな長々と前置きするのは、「私はよくわかってないんでお目溢しください」的なexcuseでもない。そんなん言うなら、哲学対話に出れば良いのである。現に今もclubhouse内で哲学対話が開かれており、私はパソコンを閉じて携帯をクリックすれば参加できる。


それでも、このnoteを書くことを選んでいるのは、私が哲学対話とは「自分に問う」ことだと思っているからだ。
自分自身に問いかける時、私には1人で言葉と向き合う時間が必要だ。
みんなと一緒に哲学対話をすること、それをまた自分1人で検討すること、そしてそれをまたみんなと問い合うこと。どれも私には大切で、つくづく面倒くさい人間だと思う。そんな面倒な私に付き合ってくださるみんなには感謝しかないし、だからこそ、いつまで経っても経験値は「TUEEEE」にならない。


厚顔な上に無知な私が「ひとりで問う」には当然だが限界がある。


この前、うちの娘と公園で遊んでいたら「オシッコに行きたい」と言うので公共のトイレに連れて行った。
娘は1人で用を足せるものの、家や園のような慣れている場ではない公共のトイレはなんだか不安らしく、私も一緒に個室に入るように言うのが常だった。
しかし、この度初めて「1人で出来るからママ外行ってて」と言ったのだ!
私は娘の成長が嬉しく、でもワルイ人が居たら困ると言う心配もあり、個室の外でドキドキしながら待っていた。
無事に用を足し終え得意げな顔で出てきた娘を、手を洗わせるのも忘れ抱き締めた。そして褒めまくろうとした。しかし、適切な褒め言葉が出てこないのである。
こういうときの常套句は「お姉ちゃんになったね」なのだが、果たして「お姉ちゃんになる」ということは全肯定されるべきことなのであろうか。

「お姉ちゃんになる」という言葉はザックリ2通りの解釈が出来る。
① 幼児であった時から「お姉ちゃん」と呼ばれるような児童になった
② うちの娘には弟がいる。その弟に対して「お姉ちゃん」という年長者としての矜持を見せた

園の先生達がよく使うのは①の意味だと思う。しかし我が子たちは姉弟なので、娘自身が②の意味に取る可能性もある。
私は②にすごく抵抗がある。「姉」だからといって、自分がなりたくてなったわけでもないロールを押し付けられ、我慢やお手本を強いられることは果たして正しいのだろうか。「姉」であることは、何かしらの義務や責任を負うことなのだろうか。娘は自身が「姉」であることを、どのように受け止めているのだろうか。なぜ私はこれほど姉弟間のロールを背負わせることに抵抗があるのだろうか。
更に①はいわゆる「大人になる」と、ニアリーイコールである。それでは「大人になること」は良きことなのであろうか。大人とは何なのであろうか。

私は、抱き締めた娘に手を洗わせている間に、グルグルと問うた。褒めたい!めちゃくちゃ褒めたい!
そして焦った挙句、タオルで手を拭く娘に、私の口から出たのは
「すごいじゃん!本当にすごい。おっきくなったね!もう100歳だよ!100歳!」

100歳、それは逆にオムツである。


無知な私がいくら1人で問うたところで、間違う。完全にポカる。
だからこそ、みんなに教えて欲しい。
「お姉ちゃんになったね」は褒め言葉なのか?
私はなんと言えば良かったのか。


また、この前うちの息子3歳がパパに怒られた。怒られた息子は、そのこと自体がイヤで、パパの横っ面をひっぱたいた。
ダメだ。これは叱らねば。しかし、今度は適切な叱り文句が出てこないのである。

「父親を殴ってはいけない」のは何故だろう。
不快な思いをしても暴力を振るってはいけない。これは父親に限らない。
だが、パパを殴った息子を殊更に「叱らねば」と感じてしまった私自身に偏見があることは否めない。つまり、私自身に家父長制とか儒教とか長幼の序とか、そんな古臭いイデオロギーが染み付いている。
そして私自身が絶対君主制とも呼べるほど、超怖い父親の元で育った。だから「父親を殴る」なんていうことは問答無用で許されなかった。しかし、そのように問うことも無しに躾けられた私たち姉弟は全員、「ワルイことをして父親にバレるくらいなら警察にバレた方がマシ」という育ちをしてしまった。
問答無用はいかん。説明せねば。

「息子くん、自分が嫌な思いをしたからといって、誰かをぶったりしてはいけないよ。
そしてね、あなたはこれから大きくなっていったら、本当に本気で、パパやママをぶん殴りたくなる時が来ると思う。それはもう、腹の底から。
だからその時が来るまで、この拳は取っておいて欲しい」

偏見だけでなく、ママの元ヤンぶりまで露呈している。これもいかん。
哲学対話仲間たちに再検討して欲しい。




哲学対話に出れば出るほど、「誰かに問うているようで、自分に問うているのだ」と感じる。誰かと一緒に、誰かの問いを助けに、自分自身に問いかけ続けているのだ。
そして、その自分で問うたことの限界を、誰かに広げて欲しい。ひっくり返して欲しい。発展と、展開と、反転と、新たな問いを。そこから、私はまた問うから。




#哲学対話 #日記 #子ども


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