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子どもと問う#8 〜ママがママであるために〜

子どもと問う#8
〜ママがママであるために〜

#7で「実はそんなに哲学対話に出ていない」ことを白状した私だが、この前久しぶりに娘と哲学対話に参加した。
週末の昼下がり、残酷な発令でどこもかしこも閉まっていても哲学対話は開いている。オンラインzoomだから。ありがたや。

(今回の対話は、参加者の皆さんの発言が本当に素晴らしかったのだが、アウティングになるのでここにはあまり書けない。なので主に娘の発言を中心に書くが、それは参加者の方々またファシリの方の問いに触発され、そのおかげで娘は問うことが出来ている。この事実は明記しておきたい)


テーマ
【自分にとって自分とはなにか】
フィロソフィーネーム:私「つきみ」・娘「本名(なので、ここでは「ムスメ」と記す)」

時間になるまで、娘と2人で今回のテーマについて考えた。
「娘ちゃん、娘ちゃんにとって自分ってなに?」
「え?何ソレ」
そりゃそうである。厨二にもなっていない5歳児だ。
「えーっとさ、娘ちゃんにとって弟くんってどんな人?」
「一緒に遊ぶと楽しくて、でも喧嘩したくなって、可愛いけど、時々ぶちたくなる人。あと、ちっちゃい」
「じゃぁ、今弟くんで考えたところを娘ちゃんで考えてみて」
「天才で賢くて美人!」
バリ高。娘の自己肯定感、引くほどバリ高である。

「あ!でも、私もちっちゃい時、あった!」
そして昔のアルバムを2人で見ていたら時間になったので、zoomを繋いで皆さんにご挨拶。

久々の哲学対話だからか、娘は大げさに手を挙げて序盤から飛ばしまくる。

私は自分がいっぱいあります。弟くんのことをぶちたい自分。でも我慢する自分」
「それではムスメさんは、どっちの自分が自分だって感じますか?」
「ぶちたいって思ってる自分かなー。でも、我慢したことを褒められたい自分もいるから、やっぱりいっぱいある!」

「あとね、私はプリキュアになりたいんだけど、プリキュアって元々フツーのおねえさんで変身してプリキュアになる。私は、私が変身してプリキュアになりたいんじゃなくて、いつかそのフツーのおねえさんになってそこからプリキュアに変身したい。
今の自分の先になりたい自分があるんじゃなくて、自分と違うところになりたい自分がある。だから、自分って続いてなくていいし、いっぱいある

参加者の方々は荒唐無稽な魔法少女願望にも誠実に問いかけてくださる。
「じゃあ、そこでムスメさんが「本当の自分だ」と思うのはどの自分?」
「プリキュアになりたいって思ってる自分」
娘のあーだこーだを聞きながら、今の彼女は現在に焦点が当たっているということなのかな、と浅はかなママは思っていた。


参加者たちが様々な発言をする。それを受けて、娘はまた手を挙げる。
「さっき、私が赤ちゃんの時の写真を見ていたんだけど、自分なのか弟くんなのかわかんなかった。ママに「これは娘ちゃんだよ」と言われても全然そんな気がしない。だから、その時の自分は自分かもしれないけど、自分にとっては自分じゃない

そこで参加者たちは「自分とは記憶なのでは」と検討してくれた。なのに、娘はぶった切って質問する。

寝てるときって覚えてない気がするけど、それも自分ですか?

ぶった切りにも丁寧に応えてくださる参加者
「ムスメさんは、あんまり夢を見ないかな?私は結構夢を見るのだけれど、現実に紐付いていたりするから、その夢の自分も自分だって気がするなぁ」

そしてその丁寧な問いかけに畳み掛けるように問う娘
私、夢の中ではトイレでオシッコしたのに、起きたらオネショしてる。夢の中の自分が本当の自分ならいいなぁ

他の参加者が更に娘に問う
「じゃあ、ムスメさんにとって一番本当の自分だって思う自分は、その自分のことが好きな自分のときなのかな?」


ううん。違う。一番自分だって思う自分は体とかの感じがある自分。
好きな自分は「プリキュアになった自分」だけど、体の感じがよくわかんない。それより「プリキュアになりたい自分」はあったかくて甘くてキュッとした感じがする。
だから、「夢の中でトイレでオシッコしてる自分」が本当の自分ならいいなって思うけど、「起きてオネショしちゃった自分」の方がズボンが気持ち悪かったりお尻が冷たかったりするから、本当の自分なんだって思う」
はい、すみません。ママ間違えてました。彼女にとって焦点が当たっていたのは、現在という時間ではなく、身体の感覚の方でした。


しかも身体感覚を持った自分も更に「いっぱいある」らしい。
オネショしちゃってしまったなと思う自分・でもオネショって気持ちいいなと思う自分・どうにかして弟くんがしたことに出来ないかなと考えている自分・・・

それでは自分の核とは?
娘曰く「失敗しても怒られてもオネショしても、その自分も別に嫌いじゃない。ただ、真ん中のところに置こうと思うのは心地良い自分」とのこと。さすが自己肯定感バリ高女。


それを受けて参加者の方から
「自分は、自分とは痛みなのではと思っていました。しかしムスメさんのお話を聞いて、自分の核に心地良いものを置いた方が生きやすいのではと思い始めました」

ちょーーーっとまったーーー!!!
ねるとん紅鯨団がギリ世代であるママは、踵を返そうとした参加者さんを呼び止める。

「つきみの方です!私も、自分をそれこそ痛切に認識するのは痛みだと思っていました!」
まさかのママ乱入。
「私はいつも、自分の痛みは自分のもの、だと思っています。そして痛みというのは他者を引き剥がす気がします」
いつもは通訳者に徹するママなのだが、今回は昼下がり。寝かし付けのタイムリミットもない。会の皆様に甘えてママのターンも頂戴した。その後も対話は続く。

そして、記念撮影をして終了。
もう夕飯の時間である。



料理をしている私に娘が聞いてきた。
「ねぇママ、私が自分の真ん中は心地良いやつって言った後に、ママが痛みのお話してたでしょ?私、間違ってた?


これに「人それぞれだよ」と返すのは簡単だ。しかしそれでは哲学対話をしている意味がない。私は絞り出すように答えた。(が、今でも悩んでいるので誰かなんと言えば良かったのか教えてください)
間違ってないよ。あなたは何も間違ってない。それと同じように多分、正しくもない。
ママと娘ちゃんは仲良しだし一緒に暮らしてるし親子でしょ?それでも考えは違う。
画面の中にいた人たちも皆、考えてること違ったでしょ?でも誰も間違ってるなんて言ったり、正しいなんて言ったりしないし、喧嘩もしてなかったでしょ。ママと娘ちゃんが違うこと言ってても、誰も変なお顔していなかったでしょ?
みんな一生懸命「ホントのこと」を捕まえようとお話ししてたでしょ。
最後はニッコリでお写真撮ってたでしょ。そういう感じ。わかる?」
「あーOK!OK!お腹減った」
ママの中では全然OKな気がしないので、やっぱり誰か教えてください。


そして夕飯の時、更に私は打ちのめされる。
哲学対話の邪魔にならないよう弟くんを連れて出かけてくれていた夫に報告するていで、私は娘をおだてようとした。
「今日ね、哲学対話の時、みんなが「ムスメちゃんすごい」って言ってくれたんだよね〜」
すると娘はキッと私を睨んでこう返した。
違うよ。みんな「ムスメちゃん」じゃなくて「ムスメさん」って呼んでくれたんだよ
そう言い返し終わった娘はエッヘンと誇らしげである。


ママのお為ごかしやお世辞やおだてなんて、子どもは瞬時に見抜く。それと同様、場に自分がどのように受け入れられているかも瞬時に見抜く。

そして、ママと子どもは対等ではない。そのことを子ども自身だってよくわかっている。ママは良くも悪くも自分の子どもを「トクベツ」にする。だけど「トクベツ」なだけじゃ育たないものもある。「トクベツ」を子どもが望んでいないときだってある。「トクベツ」にしないことで守られる子どもの誇りもあるし、「トクベツ」にすることで守られる誇りもあるのだと思う。ママには後者しか出来なくて、知らず知らずに前者を踏みにじる。
いつだって、娘を取り巻く多くの人たちに助けられ、私はかろうじてママという特権を許されているのだ。


この対話の参加者の方々、そしてファシリの方に、感謝と敬意を。

#哲学対話 #日記 #子ども


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