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急ぎすぎるマイナ問題と学校ICT化問題を考える

「ヒント帳 85」で、マイナ問題と学校教育におけるICT化によって起こる問題は同根であると述べた。

そのマイナ問題は、新たな問題が判明したり、「総点検」を巡って自治体が悲鳴を上げたりするなど、一向に収まる気配はなく、逆にますます国民の混乱が増している。

この混乱の主因は、以前に述べたように、政府の準備不足である。

十分な準備ができていないにもかかわらず、「世界に追い付く」という明治期の近代化政策と同じ発想で施策を進めるからである。

令和の鹿鳴館は、マイナンバーカードの「顔」をしているのだ。

そもそも、日本は、なぜこうも「何もかも一番」になりたがるのだろうか。

スポーツの世界だけを例にとっても、野球、サッカー、バレーボール、ラグビー、水泳など、すべての種目において「世界一」を目指している。
「世界一」でなくては認めないといった感覚が、国民にも当事者である選手にも共有されてしまっているようにさえ見える。

ごく普通に考えれば、それが不可能であることは、誰にでも分かる。

誰もが大谷選手になれないから、彼はスターなのだ。

しかし、「夢は実現への第一歩」とか、「官民一体となって裾野を広げることが競技力を向上させる」などと、子供を煽る言葉が平然と用いられる。

その歪は、きっと出る。
否、もう出ている。

閑話休題。
マイナ政策と同根の失敗が、教育現場におけるICT化であることを、以前私は書いた。

現場の準備が整っていない段階で、経産省主導と思われるタブレット端末ありきの教育政策が、現場を混乱させているのである。

教育改革を急ぎ過ぎることの愚かさを、佐藤学氏は、氏の提唱する「学びの共同体」の学校改革を推進する文脈においてではあるが、次のように語っている。

 これまでの学校改革は、行政が推進する「上から」の改革と学校が自主的に推進する「下から」の改革が、かみ合わないことが多かった。学びの共同体の学校改革においては、改革は「上から」も「下から」も推進することを追求している。「トップダウン」と「ボトムアップ」の二項対立を克服することが必要である。しかし、その前提として学校改革の「内と外の弁証法」、すなわち「学校は内側からしか変わらない。しかし、外からの支援がなければその改革は持続しない」という原則を固持する必要がある。(中略-引用者)一つの学校の改革を実現するのにも熟慮に熟慮を重ねた子どもと教師と校長と保護者の思慮深い活動を必要としているのに、一挙にすべての学校を改革することができると考えるのは幻想である。

佐藤学(2023,pp.53-54)「新版 学校を改革する-学びの共同体の構想と実践」岩波ブックレット [佐藤学(2012)の旧版でも同様の記述あり]


学校改革に時間と思慮深さが必須であることは、現場に長くいた者として、大いに首肯できる。

また、国や地教委から研究指定を受けた学校の多くが、発表が終わった翌年に荒れるという話は、教育界では常識である。
無理な指導、急な改革は歪を生むのである。

教育のICT化促進の現状についても、まったく同じ論理が成り立つ。

必要感もなく、現場の実態が追い付いていないにもかかわらず、「待ったなしの教育改革」などと煽ったり、タブレット端末を用いた授業が「進んだよい授業」であるかのように喧伝したりしている。

それは、以前書いた「情報モラル教育の不足」「視力の低下」「読解力向上への懸念」や「利活用研修による多忙化」などの問題点をあたかも覆い隠そうとしているように見える。

しかし、教育のICT化促進にはそれら以上の深刻な問題があると、私は考える。

それは、現行の学習指導要領に改訂されてわずか一年後に、突然降って湧いたように、「令和の日本型教育」が示されたことである。

「主体的・対話的で深い学び」が漸く認知・理解され実践へと舵を切ろうとしていた矢先、その考え方と間違いなくバッテイングする教育理念、方法が提示されたのである。

もちろん、その新教育改革の中核はタブレット端末である。

この矛盾の生み出す大混乱に対してどのように考えたらいいのだろうか。

ところが意外なほど、教育研究者も現場も「静か」である。

この違和感も含めて、今後、改めて考えてみたい。