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道徳の授業で思考ツールをどう使うか

中学年、特に3年生ぐらいまでは、道徳の授業において、教材文の叙述を具体的な根拠にして自分の考えを述べる姿が多く見られた。

しかし、上位の学年の子供になると、もともと自分がもっている道徳的な価値観を、教材文の中の出来事に触発されて言うだけで終わってしまうことが少なくなかった。

そこで私は、思考ツールを用いることで、かかわり合う、深め合う「考える道徳」を目指した。
また、『教育技術MOOK 思考ツールでつくる 考える道徳』(編・著 黒上晴夫,2019,小学館)も、参考にした。

そうした実践を繰り返した結果をふり返ってみる。

結果の肯定的な面としては、次の二点が挙げられる。
第一に、子供が自分の考えを作りやすくなったことである。教材文の出来事や道徳的価値に対して、ほとんどの子が自分なりの考えをもつことができた。また、その内容も思考ツールに即応した思考を、発揮したものになっていた。
第二に、友達の考えも可視化しやすくなり、比較をしたり選択をしたりすることが促進された。

だが、そうした一定の効果が見られたものの、次の否定的な結果も見られた。
子供が各自でつくることができた考えは、上記のように分析的だったり、多面的・多角的だったりしたのだが、それもまた、話合いの場では、累積的に意見を出し合うことに終始しがちだった。
つまり、互いの意見を比較したり、参照して選択したりする様子が見られたものの、それ以上に深まることが少なかったのである。
それぞれの考え・価値の検討が進まず、N・マーサのいう「探索的会話」には、成り得ていなかった。

その要因として、次の二点があると考えている。

一点目が、思考ツールの機能を活かせていないことである。
思考ツールはよく言われるように、頭の「中」を「外」に書き出すための道具である。だから、よく「メモ紙」に例えられる。従って、書き出すだけで終わってはその効用が活かせないこともよく知らている。書き出して、その後何をするのかということが大切なのである。
つまり、思考ツールを使うことによって可視化できた考えを、「主張」にまで高める指導の工夫が必要だと考える。思考ツールは、「主張」までを含んだ「粒度」の大きさではないからである。

二点目が、発問である。
それぞれの考え・価値を検討させるための発問になっていなかったのではないかということである。
では、どんな発問だったらよかったのか。どんな発問が考え得るのか。
一つのアイデアとして、前回の「ヒント帳」で述べたようなタイプの発問、つまり、ある状況の切り取り方を変えて考えさせる発問が有効だったのではないのか。
それが同時に、思考ツールを「主張」にまで活かす手だてにも成り得るのではないかと考える。

例えば、公正についての教材で、「誰とでも仲良くすることのよさや大切さ」について様々な面から出し合った後、
「では、あと一人しか選べない班作りで、仲の良い子とそうでない子がいたら、どっちを選ぶ?」
と問う。

あるいは、よりよい学級生活を送るための協力について考えるときに、
「『友達からの励まし』と『自分のよさへの気づき』のどちらが、自分は協力しようという気持ちになりやすいか?」
と発問することで、それが物事を多面的・多角的に考えるということだと気付かせるなどである。

どうだろうか。

なお冒頭で、3年生ぐらいまでは思考ツールがなくても「深め合う道徳」が可能であるかのように書いたが、決して思考ツールが必要ないというわけではない。
上記の二つの発問例も、3年生を対象としたものである。3年生に対して思考ツールを用いた上での発問である。

また、ある3年生にクラスで道徳授業を行った時も、ウエッビングに似た複数の考えを書かせるワークシートによって、資料の読みが深まり、多面的・多角的な思考を促すことができたと考えている。

3年生以下の道徳授業であっても、思考ツールは有効に活用できる。