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思い込みに囚われず

 心理的なブロックとかノイズとかって呼ばれている「思い込み」。
 最初にそんな話を聞いたときは「思い込み? ああ、あるある」などと思っていたんですが、あるあるどころじゃないなと気がつきました最近。

 わりとすぐ目につくのは
「わたしは人間に対して苦手意識がある(=対人恐怖)」
 みたいな、大きな思い込み。

 こういう、大きな、目立つブロックが自分のいくべき道にゴロゴロ転がっていて、それを片付ければ平らな道になるというイメージだったんですが。

 実際は、もちろん大きな、目立つブロックはあるけど、それ以上に、日常的に転がっている、小石のような「思い込み」のほうが、厄介かもしれないと思うようになりました。

「わたしはダメ人間だ」
 という思い込みがあるとして。
 でも、その思い込みを支えている無数の小さな思い込みがあるんですね。

「働かざるもの食うべからず」
 というような「意識」。

「労働はきつい」
「成果は苦しい努力の果てに得られるもの」
「お金を稼ぐのは大変」
「苦しい思いをしなければ努力ではない」
 などなど。

 それが思い込みだとすら気が付かない、小さな石ころのようなものが無数にある。

 砂利道の、砂利ひとつひとつを取り上げては破砕して歩くなんていうのは事実上不可能。

 どーすんだよこれ。
 と思ったんですが。

 砂利ですから、気にしないでそのまま踏み越えて行けるときってあるんですよね。
 そういうときは気にせず踏んで歩いていけばいいし。

 たまたま歩いていてつま先にあたり、つまづいたら、
「なんだこれ」
 と言って取り上げて、道の外へポイすればいいのでは? と気がつきました。

 無意識にあるものが意識できたら、これだけでももう、お化けの尻尾を掴んだようなもの。
「これは〝常識〟でもなければ〝真理〟でもない。
 単なるわたしの思い込みだ」
 そう気がつけたらしめたもの。

 たぶん。
 子供の頃から、親に、先生に、社会に、周囲の友達に、触れてきた情報に、数えきれない数、刷り込まれてきた、こういう「思い込み」を一掃するのは、事実上、不可能でしょう。
 全てが無駄なものというわけでもなく、この社会で生きる上では必要な知識や「知恵」ということもあるので、全部を廃棄する必要もない。

 ただ、何か自分にとって邪魔になるとき。
 歩いていく足取りを重くする場合。

 そんなときは足元を見て、
「それって本当?」
 と思いながら、思い込みを眺めてみればいい。

 働かざる者食うべからず——、それって「本当」?
 別にそれを実行しなくてもいいんじゃない?

 そんな感じで、自分の役に立たないものなら(これもケースバイケースで、役に立つ時もある)そのときはポイすればいい。

 必要なのは、思い込みをなくすことではなく、
 思い込みを「選別」して、そこから「自由」になることなんじゃないかな、と。

 最近はそんなふうに思うようになりました。

 思い込みを「なくす」という考え方も、思えばこれもゼロ100思考だよなーと思う次第です。
 生きている限りは出てくるムダ毛や排泄物みたいなもの。
 なくしてゼロにすることを目指してもできる話じゃない。
 ゼロにすることにこだわること自体、すでにゼロ100思考、白黒思考に「囚われている」。

 目の前に障害物となって現れたら「ふーん」と言ってスルッと身をかわしてまた先へ進む。

 そんな軽やかなイメージでいいんじゃないだろうか。
 最近はそんな感じでとらえています。

 
 

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