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【短編小説】ジュース

 ぶぅーん。という冷蔵庫の音が聞こえるほど静かだった。4LDKの部屋の中には俺と友人の2人だけ。いつもは明るく美人の友人の奥さんが手料理を振る舞ってくれるのだが、今日は彼だけだ。
 「聞いてほしいことがあるから」と連絡があり、昼過ぎに彼の家を訪れた時は明かりも点けずに、寝起きのスウェット姿の彼だけが出迎えた。
 さすがにリビングは照明がついているので暗くはなかったが、カーテンは全て神経質なまでに閉められ圧迫感を感じた。彼は慣れない様子で冷蔵庫を開け閉めしたり、ガチャガチャと食器棚をいじっている。
「おい、嫁さんはどうした?出ていかれたか?」少しでも空気を和ませようと冗談ぽく話しかけてみた。
「ハハ、出て行ったわけじゃぁ……ないかな。うん」明らかに力がない。
 部屋の中を見渡して見たが散らかった様子もないし、生ゴミが腐ったような匂いもしない。仮に家出だとしても最近だろう。家族がいなくなった家というのは生活が停滞しがちだ。


「どうした。落ち着かないな」いつの間にか彼が盆にコップを乗せてたっていた。相変わらず力無くゆらゆらと俺の向かいのソフアに腰掛け、大きな透明のコップを俺と自分の前に置いた。「すまんな……」俺はまずは一口飲もうとコップを手に取ったが、その異様さにコップをテーブルに戻した。気味の悪いピンク色のそれは赤みが強く、煮凝りのようにブルブルと揺れていた。
「ジュースだよ。ジュース。イチゴ、ジュース。牛乳で割って飲むんだ。嫁さんの実家から大量に送ってきてさ、腐らせちゃもったいないだろ。だから、甘く煮てシロップみたいにしてさ……」やたらと無理に笑いながら早口で説明した。そして、説明を終えると彼はそれを一気に飲み干し、大きくゲップをした。
「スマン、スマン」彼は適当に謝りながら再び立ち上がり冷蔵庫を開け、開けたままコップにあの液体を注いでいるようだ。正確には注ぐ音ではなく、ボチャボチャという子供が泥遊びをしているような音だった。

「それで?聞いてほしいことって?奥さんのことか?」

「ん?あぁ、まぁ、そうとも言えるかな……」
 彼は困った子どものような顔でこちらを見て、話し始めた。
「先週な、嫁さんとな、喧嘩してな。最初は口喧嘩だったんだが……どんどんエスカレートして、それで、かっと、なって」
「……やったのか?」俺が口を挟むと、彼はためらいながら頷いた。
 目線をどこに向けていいのか分からず、下を向いた。蝿だ。口をつけられずにいた飲み物の上を蠅が横切った。してはいけない妄想が浮かぶ。
 赤い、肉。真っ赤な肉が……フードプロセッサでグチャグチャに砕かれる。そして牛乳を注いでボトルに詰める。それが何本も冷蔵庫に並ぶ。
 息を飲む音が彼に聴こえてしまわないよう我慢して、かわりに深く息を吸った。

ガッチャ。

 静かさを切り開くように、玄関のドアが開く音がしてトタトタと軽い足音がする。
「ただい、ま?」
 買い物袋を肘にかけながら、ショートカットの髪をふわりと揺らした女性がリビングに入ってきた。彼の奥さんだった。
 俺が目を丸くして彼と彼女を交互に見ていると、彼が吹き出してアハハとわらいだした。

「ごめんなさいね。子どもっぽくて」
 彼女は半笑いしながら謝った。
「だって、コイツ俺が君を殺してジュースにしたと思ってたんだぜ!」膝を叩いて彼は笑った。
「もう!この人、昨日も家中の牛乳使っておやつをつくっちゃったのよ。ほら、それ。おかげで牛乳を買い出しよ」
 彼女は少し楽しそうにコップを指した。
「ああ、フ◯ーチェ……」
「食べきれないから。持って帰ってくださる?」

 大量のフルー◯ェを土産に貰い、家に帰る道中。俺は天啓を受けた気分だった。「この手があったんだ」つい嬉しくて呟いてしまった。まずは牛乳とできるだけ大きなフードプロセッサを買いにか行かなくては。現在、我が家の冷蔵庫を"占有している妻"を片付けるにはジュースが一番だ。

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