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生きてるみたいに、死んでるひと

死んだように生きる、って言葉があるけど、生きるように死んでる、ってこともあるよな、とふと思った。

わたしの記憶には、まさかもうこの世にいないとは思えない人がひとりいる。頭の中には生きてる彼女がいて、いつも静かで、体育の授業のバレーボールではレシーブが下手すぎて空気が固まるほどで、白い肌と空気に透けそうな茶髪がかわいくて、白い花に囲まれてそうな小柄な女の子で。いつも少しだけ笑って、そしてうつむいていた。彼女とわたしは同じ高校の隣のクラスにいて、体育の授業で一緒になるだけで、なんとなく話したことはあるけどお互いによく知らなくて。そんなカナ(仮)と初めて二人で話したのは、高校からバスで30分もかかる小さな街の精神科の待合室だった。

高校生のわたしにとって精神科の待合室は、誰にも侵食されないのにさびしくもない、不思議な場所だった。冬のうつが始まった高1の頃は保健室に行けば耐えられたのが高2で耐えられなくなり、当時の恋人の紹介で10代も積極的に診ているという精神科に行くことにした。家の食器棚から保険証をこっそり持ち出し、えんじ色のバスに30分揺られる。その待合室で、診察を待つ時間、頭の中は真っ白だった。携帯をいじるでもなく、ぼんやり座って、BGMのクラシックがふわっとお腹に入ってくるのを感じて、ただ座っていた。他の患者とは目線が合わないよう並べられた椅子。けれど、近くに人がいることを心地よく感じる。そのとき、目の前に現れたのがカナだった。

「あれ」「え」

お互いに驚いて、でもわたしはすぐに受け入れた。カナはいつも静かで、うつむいていたし、しっかりと心に影があるのが外から見てもわかっていたから。

カナはおずおずと隣に座って「えっと、高柳さんは、そういうふうにみえなかったから、びっくりした」と率直に言った。そういうふう、ってのは、精神的な問題があって精神科に通うような人には見えなかった、という意味だろう。そうだよね、だってわたしは学校ではなるべく元気に笑って過ごしているし、運動部に入って男子みたいに短い髪で、少し話したくらいで精神に影があるようには見えないようにふるまっていたから。だから、カナがそう言って安心した。ちゃんとできてたんだ、わたし。

待合室で携帯の番号を交換した。パカパカのケータイの赤外線で。帰りのバスの中で、ショートメールを送った。返事が来た。それから、体育の授業で話すようになった。べらべら喋るわけじゃない。カナの静かさ、ゆったりした話し方に合わせて、体育館の壁に背を預け、しょぼしょぼと話すだけ。でもそれが心地よかった。カナは笑ってくれるようになった。カナをもっと笑わせたかった。

高3になる頃か、カナが学校に来ない日が増えた。体育の授業でも顔を見ない。不登校になったんだ、と思った。古い価値観の学校だったから中退もいたし、不登校もそう珍しくない。いつでもメールできるし。わたしたちには同じ精神科に通っているという小さな秘密がある。そう思うと何もかも大丈夫な気がした。そうしてわたしは、うつを抱えたまま受験に向かっていった。大学の前期試験が終わって、きっと落ちてるだろうからと後期試験に向けて休日に高校で勉強していた日。同じクラスの親しい友人と教室でアイスを食べていると、彼女が言った。

「そういえば昨日聞いたんだけど、隣のクラスのカナさん、死んだって」

えっ。

えっ?

あまりに大きな声が出て、冷たい廊下にまできんと響いた。

うっそ。うそ。なんで?息するみたいに思考より先に声が出る。

「カナさん、病んでたやん。でもカナさんのお母さんの方がもともとめっちゃ病んでたらしくって、カナさん乗せて車で海に突っ込んだって」

病んでた。たしかにカナは病んでた。お母さんのことも少し聞いたことがある。あああ。顔を覆った。制服のポケットから携帯を出して、連絡先の一覧からカナを探す。携帯番号。なんで。今メールしたらどうなるんだろ。なんで?なんで。お母さんどうしてカナまで連れてったの。

合格発表の日、わざわざ隣県の大学の掲示板を見に行った。わたしの受験番号はやっぱりなくて、恋人に電話すると「正直、遠恋が先延ばしになってホッとした」という。そして、元から決まってたみたいに予備校に入った。予備校では朝から晩までちゃんと勉強して、翌年は余裕を持って大学に合格した。恋人とは大学に入って3ヶ月もたたずに別れることになった。「最後に一度だけ会いたい」と恋人がうちに来て帰ったあと、カナのことを思い出した。なんでだろう。あの古いアパートの5階のベランダから見えた夕焼けが、カナと過ごした待合室を思い出させた。恋人と別れたばかりだったけれど、さびしくなくて、誰も侵食してこない安心感でいっぱいで、でも悲しくて。誰にも分かってもらえない気持ちのまま、ぼんやりして、真新しい布団カバーの安っぽい緑色にほほをくっつけて、あー死にたい。死にたいな、って声に出した。カナ、死ぬってどうですか。でも記憶の中では、あなたは当たり前に生きてるよ。だってわたし、あなたの死んだとこ、見てないもの。

携帯がパカパカじゃなくなって、スマホの待受はどっかで拾った夜空の画像で、次の半恋人みたいな人とも縁が切れて、その次の恋人とも就職後に別れて。その度に連絡先を整理するんだけど消せません。カナの携帯番号が、わたしには消せません。このままわたしは死ぬまでカナの携帯番号をiPhoneに置きっぱなしにしてしまうんだろう。カナ、知らないと思うけど、今はケータイには赤外線なんてついてないんだよ。連絡先を交換するときは、電話番号よりLINEか、インスタのIDを交換するんだよ。でも、あの、ケータイの背と背を向かい合わせて二人でじっとする時間、好きだったな。

高校を卒業しても、わたしの冬のうつは治らなかった。どうしたって寒くなると同時に心が死を意識してしまう。大学でも、就職しても、結婚しても、ひとの親になっても。カナのお母さんの気持ちは今でもわからない。

死んだように生きる冬が毎年やってくる。その度に、生きてるみたいに死んでるカナを思い出す。目をつむって、車の助手席にいる自分を想像する。海に向かってぎゅーーーーーーってアクセルを踏む母親と、逃れられない自分を思う。どぼん、って落ちたら、視界はいつどうなっていくのか。そのときカナはどんな服着てたんだろう。どんな靴をはいてたんだろう。

毎年冬になるとやってしまうその想像が、関東から海辺に移住したせいか、明らかに変わった。今まで勝手に想像していたのは夜の、港のある黒い海だったけれど、あるときからは昼間の青い海が見えるようになった。砂浜を車でごろごろ進んで、ぬるい海に入るさまが目の前に映し出される。どぼん、でおしまいじゃない。じゃば、じゃばじゃばって、車は波にゆられて、がたがた進む。太陽の光がぎらぎらする。フロントガラスには海水の波がかかる。海中が見え始めた。黄色い魚が泳いでる。やたらでかいヒトデがいる。丸いクラゲが浮いている。きっと、カナなら、ドアを開けて飛び出して、泳いだんじゃないかと思う。わたしの想像の中でカナが泳ぎだした。

死んだように生きるには、もったいないほどきれいな場所に生きているのだ、わたしは。31歳にもなって、17歳の頃の友人の死を新たな映像で脳内に描ける。これは希望だ。勝手な想像であることには変わりないけれど。冬に感じるはずのない、急にあったかくなった春のような、希望。

やりきれない夜の想像も、十何年の時を経て、真っ昼間に変わる。そう思ったら、いつまでも彼女の携帯番号を消せない自分のまんまで、ずっとずっと生きていける気がした。生きてるみたいに死んでる人を忘れない。わたしは生きてく。生きていく。

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