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愛だから

好きなものについて語れますか。わたしはカマキリが好きなんだけど、それについてあなたはどう思いますか。

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いや、どう思っててもいいんですけどね。

夕方のリビング。視界の正面には窓があって、座ってても少しだけ、海が見える。残念なことにうちのマンションのガラスには黒いワイヤーが入ってるから、座ったまま見えるガラス越しの海は、実物というより壁紙みたいだ。3日前に物置部屋からひきずり出したこたつは夏用のテーブルより高さがあって、パソコン作業には不向きだった。しばらくキーボードを使うと、腕の内側にテーブルの端の赤い跡がつく。

そうだった。好きなもの、それを公言することについて考えてたんだった。

好きなものについて書くことって、どうにも気が進まない。それはわたしが好きなものがカマキリやカエル、白い服などの「映えない」ものだからというのもある。でも根っこの部分で思ってるのは、好きなものを公言する意味がよくわかんないってことだ。

例えばわたしがカマキリへの愛を語るなら…

カマキリとの遭遇は幸福であり冒険である。それは森だったり、林だったり、道端だったり動物園だったり、あるいは家の玄関の前だったりする。カマキリはどこにでも現れる。あの三角の顔、昼間は小さな点に見える目、両手に備えたカマ、びっくりするほどの緑色。泡状の卵から出てきた時点で極小サイズながら完成されたボディ。全て愛おしい。
わたしはカマキリと出会ったら、なるべく手に乗せようと決めている。わたしにとって生き物は見るものではなく、触るものだから。手に乗ったカマキリは、道端のカマキリとはもう違う存在で、唯一無二の存在になるのだ。わたしとそのカマキリが再び会うことはないだろうけれど、そのカマキリがわたしにとって特別なカマキリであることは間違いない。だから最後に記念写真を撮る。そしてそれをインスタのストーリーにアップするのだ。インスタ映え?あの緑色が最高に映えてるだろ…?

わたしがカマキリへの愛を語ると、こんな感じになる。そして、ここまで書いたらそっとメモ帳を閉じていい気がする。わたしの愛はカマキリへの愛だ。カマキリはおそらく識字率0%で、日本語が読めない。だから、この気持ちがこの文章によってカマキリに届くことはない。だから、書く意味がない。

この愛は、カマキリに届きさえすればいいのだ…!

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カエルについてもおおむね同じ熱量で愛がある。そして同じく、公言するつもりがない。

確かに、わたしがカマキリへの愛を語れば、周囲にカマキリ好きが増えるかもしれない。回り回ってわたしにカマキリグッズが届いたりするのかもしれない。目撃情報や写真が届いたりするのかもしれない。そういうのを引き寄せって言ったりするらしい。

けれど。

興味がないのだ。わたしはわたしが出会ったカマキリが好きなのだ。カマキリを直接見て、手に乗せるのが好きなのだ。誰かが出会ったカマキリには全く興味がない。周りにカマキリ好きが増えようと減ろうとわたしには関係ない。

わたしは自分の体験が付随した何かを愛するのだろう。

これと似たことがあった。
わたしは中学高校と陸上部に入っていたけれど、数年に一度テレビでも大々的に放送される世界陸上を一度も見たことがなかった。チームメイトは毎日見ていたらしく、わたしはその時期全く話題についていけなかった。自分やチームメイトが陸上をしていることは好きでも、それ以外の人間が陸上で競い合うことに一切の興味がわかないのだ。

同じだ。カマキリも。カマキリへの愛はカマキリにだけ伝わればいいと思っているし、誰かのカマキリではなく自分の出会ったカマキリを愛しているのだ。

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ああでも。

ここまで書いて気づいたことがある。こんなわたしでもNHKの『昆虫すごいぜ』で香川照之がカマキリの姿になっていることは、めちゃくちゃに嬉しいのだ。

ご存知ない方もいるかもしれない。民放で香川照之が昆虫好きを表明したことをきっかけにNHKで始まった番組『昆虫すごいぜ』では、MCである香川照之がカマキリの被り物をまとって、テーマとなる昆虫を自然に分け入って追いかけるのだ。

わたしがカマキリになった香川照之を見て心底嬉しかったのは、彼のカマキリ愛の究極的な表現を見せられているからだ。わたしは初見でテレビに釘付けになった。彼のカマキリ愛の大きさ、そして強さ。その真似できなさを尊敬している。

そう思えば、わたしのカマキリ愛を「真似できない」と感嘆するひともどこかにいるかもしれない。わたしにとっての香川照之のように、わたしは誰かにとってのカマキリ先生でありうるのだ。

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誰かにとってのカマキリ先生になりうるわたしとして、広いインターネットの世界に、わたしのカマキリ愛を残しておく。これがわたしの愛だから。



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