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眩しい人





Y、別れ


 高校2年生の夏、友人Yが飛び降りて死んだ。授業中にくらっと不意にくる眠気みたいな、突然の出来事だった。LINEのトークルームをいつまで眺めていも、メッセージが既読にならないことで、僕ははじめて死を理解した。

 遺書、遺言、それらしいメッセージはなし。最後にYと会った友人は、彼が驚くほどいつも通りだったということを僕らに話して回っていた。彼はまだ「Yの死」を決定づける何かと遭遇していなかったんだと思う。不謹慎にも見える彼の吹聴が、かえって僕にとってYの死を鮮明にした。

 町屋で行われた葬式には僕ら小中の同級生が10人ほど訪れた。式場の甘ったるい匂いは、焼香というよりも嬉しそうに花弁をたたえる胡蝶蘭から漂っているような気がした。全く気に食わない。いつもの笑顔が剥がれ落ちた真剣な表情の遺影を見て、もっとマシな写真はなかったのかよと、ため息が出た。奴が事前に遺影を選ぶなら、あり得ないチョイスだった。
「来なきゃよかったよ」
僕は遺体を見ることができなかった。


碌な人間にならないぞ


 小学5年生の夏、僕とYは校庭の傍にあるうさぎ小屋にいた。成り行きで生物委員になった僕らは、夏休みの間うさぎの世話をさせられることになってしまったのだ。もっとも世話とは言っても、夏休み期間中に飼料庫の鍵を管理して給餌や軽い掃除するだけであり、面倒ではあったが毎日30分もかからない単純作業であった。普段の学校生活ではほとんど仕事がない委員会だったので、夏休みくらいはこき使われて然るべきだろう。それに毎日給餌せずとも、一度にそれなりの量の餌と水を与えておけば3日くらいはどうってことないので、本当に楽勝な仕事だった。
「なぁ、毎朝ふたりでくるのも面倒だし、担当日を決めて仕事を分けようぜ」
僕は欲が出て、さら楽をするためにYに提案した。
「俺、うさぎ好きだから全部やるよ」
Yから意外な言葉が飛び出した。
「まじ?」
「うん、任せて」
 飼料庫の鍵をふわりとYにパスして、僕はそれ以来一度もうさぎ小屋へ行かなかった。
 
 そうして充実した夏休みを過ごした休み明け、衝撃的なニュースが耳に飛び込んできた。どうやらうさぎが死んだらしいのだ。みんなの冷ややかな視線に僕はギョっとして、ギリギリで登校してきたYを捕まえて事情を聞くことにした。
「え?うさぎ死んじゃったの?」
「らしいね」
Yは不敵に笑っていた。
「え、餌はどうしたの?」
「一回も行ってない」
「え」
「一回も行ってないよ、俺」
「まじ?え、なんで?」
「忘れてた」

 忘れてた。言い訳するわけでもなく、あっさりYは答えた。どうしよう、サボってたのは僕も同罪だしこれは怒られるやつだ。今からでも先生を騙す言い訳を何か練らなければ。そうだ、もういっそのこと一ヶ月旅行に行っていたことにしてしまおう。両親と口裏を合わせてなんとかやりすごすしかない。

 そうやって保身のために思考を巡らせていた僕とYを、職員室から来た他学年の先生が探しにきてよそよそしく呼んだ。教室中を見渡して僕らを発見した時に向けてきた冷めた目線に唾を飲む。さて、処刑が始まる。どうしたものか。重い足取りで職員室まで僕らは歩きだす。

 ところが僕らを待ち受けていたのは意外な対応だった。

「今回のことは残念でした。君たちにも責任の一端はありますが、それは先生たちも一緒です。」
「生き物は必ず死にます。あまり落ち込まないでください。」

 なんと僕らは慰められたのだ。冷静に考えれば10歳そこらの子どもにとって生き物が死ぬことがショッキングな出来事であることは言うまでもない。先生はそのことに気を遣って僕らに優しい言葉を投げかけたのだ。こうなれば僕にも勝ち目がある。ここは一つ泣いてみることにした。

「ごめんなざぁいぃ・・」

 鼻をすすりながら泣いて謝る僕。うさぎの死では泣けないから、うさぎではなく母が死んだと思い込んで涙を流すことにした。一粒涙が出て来れば、緩んだ堰が適度に水を供給してくれた。しめしめ。Yもこれに同調するかと思った。しかしYは泣くことをせずに、それどころか彼の態度は依然と飄々としていた。
「うさぎの亡骸ってどこにあるんですか、お墓参りをしたいのですが。」
Yはそう言った。
「お墓は百葉箱のそばにつくりました。後で行ってあげてください。」
「わかりました」

 こうして、僕たちは年不相応のソシオパス的立ち回りでこの場を乗り切ったのだ。

 昼休み、僕はYとふたりで百葉箱の方へ向かった。校舎から校庭を挟んで真反対の、建校時の基礎工事で出てきた土をこんもりと盛った小山の向こうに百葉箱はある。この辺りは遊具もないから鬼ごっこをやっている人がたまに通過するくらいで生徒が屯しているような場所ではなかった。
「掘り返そうぜ」
 僕は、僕たちは確かに悪ガキというか、不良少年だったけれど、もちろん墓荒らしなんてしたことがなかった。荒んだ道徳心が一瞬ひょっこりと僕の中で顔を出した。でも、
「どうやって掘んの?」
好奇心が勝った。
「うさぎ小屋の中に、大きいシャベルがあったじゃん。あれを使おうぜ」
 僕たちはコソコソうさぎ小屋に忍び込んでシャベルを手に取り、墓まで戻った。そしてとうとう墓を掘り出した。

 しかし掘っても掘ってもうさぎの死体は出てこない。それは当然のことで、仮に土葬されているとすればおそらく1m以上深い位置に埋められているし、火葬して骨だけになったのであれば、散骨されている可能性が高い。僕らの期待していたうさぎの死体などあるわけなかったのだ。墓はただのトーテムである。

 僕たちはがっかりしながら、昼休みを終えて教室へ帰っていった。そして放課後僕らはもう一度職員室に呼び出された。
「お墓が掘り返されていたらしいのですが、君たちがやったのですか?」
しまった、と思った。誰かに見られたということだ。参ったなぁ。
「死体は埋まってなかったです」
Yの正直すぎる回答に、先生はこれまでにない激昂を見せた。
「お前はなんでそんなことするんだ」
「お前、そんなんじゃ碌な人間にならないぞ」
「給餌をサボってうさぎを死に追いやり、その上墓を掘るなんてあり得ない」
まぁ、もっともである。僕はしゃべることを完全に諦めていた。火に油を注いでも仕方がない。
「大問題だ。2人の保護者には今から来てもらう」
「今日両親とも仕事です」
僕は反射でささやかな抵抗をしてしまった。喧嘩っ早くていいことなんて何一つないのに。
「はぁ?仕事?関係ないだろそんなこと」
先生も相当参っているらしく、目線がぶれていた。
「本当に碌な大人にならないぞ」
先生は繰り返す。僕はどう言い訳しようか考えていた。その時だった。
「僕はそれでいいです」
Yは吐き捨てた。Yは確かにそう言った。僕はあの瞬間を忘れることができない。

そしてYは大人にならずに死んだ。


いつも微かに焦ってる


 Yは俗人だったが、どこか僕らに向けて飄々とした態度をとる男であった。例えばYは記憶の限りでは、僕らに「がんばれ」と言ったことが一度もない。言って欲しかったわけではない。むしろ個人的には言わないでほしい言葉である。「がんばれ」はどこか他人事という感じがするから。それに、「がんばってる」人の努力量に対して、いとも簡単に使われる言葉だ。その努力・気持ちの非対称性が気味悪くて、僕は「がんばれ」という言葉があまり好きではなかった。

 でもYは哲学して「がんばれ」を避けていたわけではないと思う。むしろYは「がんばる」ことをしてこなかったから、そういう言葉は「使えなかった」のではないかという予想が、僕の中にあった。

 Yは自他ともに認めるだらしのない人間でもあった。その無気力さ加減といったら学校の七不思議に数えられるべき異常性を持ち合わせていた。そして、僕にはそれがどこか超越的なものに感じられたのだ。

 人は簡単に堕落するが、Yの堕落は様子が違った。『死に至る病』において、キルケゴールは「無限性」と「有限性」が人々に絶望をもたらす要因だと述べた。「無限性」とは簡単にいえば「自分のなりたい本当の姿」であり、「有限性」はその逆で「自分の本当の姿」のことである。キルケゴールはこの「差」に人は苦しみ絶望すると言ったのだ。しかしYにおいては「無限性」への固執が一切なかったように、僕には見えた。そんな人間がいるはずもないと頭ではわかっているのだが、そう形容せずにはいられないのだ。

 Yはたしかにあの時「僕はそれでいいです」と言った。Yは立派な人になろうとしていなかった。それどころか「大人になること」さえ否定していた。Yに無限性は存在していなかった。宙ぶらりん人間だった。

 こうしてYを自己との比較対象に据えると、自分がどれだけ権威主義の毒牙にかかっているかが浮き彫りになる。僕はいつも微かに焦っているのだ。人生には理想のルートがあると信じて、学歴も就職もそれから逸れるような事態を恐れた。だから勉強した。でもYを思い出すと、自分がなぜこんなに権威に執着しているの不思議になってくる。僕は臆病者だ。


権威主義と反権威主義


 Yはなんで自殺を選んだろう。死を選ぶほどの絶望があったとすれば、その正体は一体なんだったのだろうか。

 美学的実存、つまり「今この瞬間の幸福のために衝動的に生きている存在」。これは僕から見たYの姿と部分的に重なる。Yが幸福を探求していたかどうかはわからないが、未来を見据えて「がんばる」とか、そういうことを一切しない人間だったことは違いない。ただ、そういうデモグラ自体は特別珍しいわけでもない。努力を放棄して享楽的に生きている連中はどこにでもいるし、僕の友人の中にもその気がある奴が何人かいる。

 美学的実存を馬鹿げた存在だと思う人は少なくないはずだ。SNSを見れば人の不幸は蜜の味と言わんばかりに、努力をしてこなかった人々を罵り優越に浸る場面に簡単に遭遇する。学歴マウント・年収マウントなんていうのはその最たる例で、自身の努力と成果を肯定するために他者の有限性を囃し立てる。そして社会は無言の首肯でこれを支援している。大っぴらにマウントを取るようなことはせずとも、学歴フィルターで採用や昇進を渋ることは、現場の肯定でしかない。

 そのため一般的に人口の多数が美学的実存を抜け出し倫理的実存に至る。時期に個人差こそあれど「もっと努力しておけばよかった」と内省をして、社会に適応することを試みる。社会を肯定し、ありし日の自分を切り捨てる。僕らはその脱皮に違和感を感じることもない。

 しかし「美学的実存」を権威主義の側から罵ることは簡単だが、それを肯定する試みを完全に諦めることがプラグマティックであると僕は思わない。そもそも僕らが生まれる前から、社会が勝手に決めた「成功」という像だけを頼りに”正しい”方向性を定めてしまっていいのだろうか。「社会的成功」なんてものはごく一部、コンマ数%の人間が到達できる例外的なモデルであり、僕ら99.9%の側からすれば「虚像」でしかないのではないか。願っても通常叶わないシチュエーションに理想をおくことに果たしてなんの意味があるのか。なんで僕らは「無限性」なんてものに執着する必要があるのか。

 こんなことを言っていると「現実を見ろよ」と言われてしまいそうな気がする。しかし僕が疑問に思っていることは「あなたが信じている<現実>は本当に現実なんですか?」ということである。幻想ではないのかということである。

 例えば「地球は平らである」と論じる人がいたとする。僕はフラットアーサーではないからこの人と論には懐疑的ではあるが、その人と真っ向から議論するとして、何を根拠に地球平面説を否定しようか。あなたも考えてみてほしい。まさか「教科書に載っているから」なんて理由で戦うわけにはいかない。でも、考えてみればみるほど、僕には地球平面説を否定できるだけの実体験が存在していない。「月を見てください。星は球形でしょう?」と言っても「月は円形で平坦です」と言われたらどうしようもないし、「望遠鏡で船を見続けると必ず消えます」みたいなことを言ってみたいものだが残念ながら僕はそのような観測を試みたことがないので、今それを言った場合嘘で戦うことになってしまう。だから仮に僕が今地球平面説と戦うとしたら「一般的にそう解釈されている」という部分を軸に、そこにケチをつける必要性の薄さを根拠に、つまり孫引き的な手法で戦うことになるだろう。この場合「教科書に載っているから」ということは強力な根拠の一つになりうる。
 しかし、この調子ではフラットアーサーの「それは政府の陰謀です」という決め台詞に対する決定的な反駁を行うことができない。僕は権威の側に立つことはできても、権威そのものになることはできないからだ。つまり説得力に欠ける主張をすることになり、それでは陰謀論者とやっていることが変わらない。また、「観察したことがないならわからないのではないか」とでも言われてしまったら僕はお手上げである。
 肝心なことは、僕はここで無意識に権威の側に立つことを選択していることだ。それが一番楽なチョイスだから、「マジョリティ」が支持していることを僕と同じように支持することで、僕1人に降りかかるダメージを限りなく小さくしているのである。僕を否定することは日本国民の大半の認識、コンセンサスを否定することになるんだぞ!という守りの一手で、そうでないものを冷笑している。<現実>だと思っているものを現実だと言い切れるほどの根拠も経験も持ち合わせてないのに...

 重ねるが僕は別に地球平面説を信奉していない。しかし、大体の人が美学的実存を小馬鹿にする構造はこの例えと同じである。自分で考え観測した結果に基づいていない。社会の中で自分以外の何者かの手で勝手に生成された「正しい手順」に則っていない、権威から排除されているというだけで相手を見下し、嬉しそうにロジックを振り回しているのだ。そうすると、立場が違うだけで僕と彼ら(=美学的実存)とではやっていることが本質的に同じなのではないかという結論を得ることができる。主張すること自体は自由であり、少なくとも権威の側の人間が「己を賭けて」おこなわれる対立になっていないからだ。

 この社会は二元論によって構成されてる。正しいか正しくないかが判断基準になっている。為政者の価値基準(=正しさ)によって政治が行われるし、構造上、個人がそれに異議を唱えたところで、それは道端を歩く蟻一匹と同じで眼中になく、その気になれば一瞬で捻り潰すことができる。しかしそんな単純な二元論で僕らの内面を説明することなんてできない。さもできるように教育されてきているけども、絶対にできない。生きやすいのは権威の側に立った人間だろう。しかし美学的実存は笑われこそすれど決して否定をすることなどできないのだ。「無限性」は<現実>がさも正解を装って人々に植え付けた価値基準であり、だとすればこれを無視しようが(=美学的実存)無視しまいが(=倫理的実存)本質的に両者を分けていたはずの価値それ自体が存在しないのだから。

  Yは美学的実存に近いところに存在した。「将来に備えて努力をすること」や「なりたい自分になるための準備をすること」を肯定することも実践することもなかったと思う。僕らの将来を憂う担任に「僕はそれでいいです」と吐き捨て、停滞を選択した。無限性を夢みなかった。しかし僕とは全く異なる他者だと認識していたYは、その実、僕らと何も違わなかったのではないか。Yにとっての絶望はこの部分にあったのかもしれない。


悪友


 僕は居心地の悪さに耐えられず、通夜振る舞いに出席せずにさっさと帰ろうとしていた。他の友人も同じようなことを感じていたのか、結局僕以外にも4人ほどが焼香をして式場を後にした。

 その後僕らは「通夜振る舞い<改>」と称してサイゼリヤに向かった。大変侮辱的な行為だという自覚はあったが、正直親族の前で生前のYを褒めるようなエピソードトークを持ち合わせていなかったので、この方がいいと思った。僕らはあくまでYの悪友だったのだから、最後までそれを貫こう。

 ミラノ風ドリアをつつきながら僕らは昔の話をしていた。当然うさぎを殺して墓荒らしをした時の話も出てきた。他者目線ではあの経験が随分思い出深いもののようで、「お前らは仲良かったよな」と言われた。
「Yはなんで自殺したんだろうな」
僕は独り言のように呟いた。
「まぁあいつは明らかに社会不適合者だったし、大人になる前に死んじまおうと思ってたんじゃないのか」
「でもそんなレベルの動機で普通飛べるか?」
「Yなら飛ぶよ」
信頼というべきか侮辱というべきか、僕にはわからないけど、聞いていて悪い気はしなかった。
「確かに」
「したら本望だったのかもね」
「でも、あいつ童貞のまま死んだんでしょ」
「それ関係ある?」
「大有りだろ、女を知らずに死ぬのはちょっともったいなくないか」
「お前やけに詳しいな」
「揚げ足取るなって」
ゲラゲラ笑う僕ら。通夜振る舞いに出席しなかったことが大正解であったと確信した。
「高校に友達いたんかな?」
「インスタ見る感じまぁまぁ高校のやつfollowしてるよね」
「ストーリーもよく挙がってたし」
「今日高校の人いた?」
「わかんない。いたっけ?」
「いや俺ら以外同世代のやついなかったんじゃね?」
「普通に招待されてないのかもしれないね、ワンチャン、親が高校に原因があると睨んでるとか」
「ありうるなぁ」
「説ある」
「なんで俺ら逆に呼ばれたんだよ」
「普通に母親同士が仲良いんだよねうち」
「そうなんだ、そこつながりで芋づる式に俺らも呼ばれたのか」
「多分?」
「まぁあいつも嬉しんじゃない、みんな来て」
「かもね」
気がつくと料理が冷めていた。こんなに話しても、誰もYの正体がわからなかった。でもみんな同じようなことを思っていた。
「YはYのまま死んだ」のだと。


羽をもぐ


 人生に飽きるタイミングがあるとしたらいつだろう。僕はそろそろ飽きる予感がしている。権威主義の内側で僕は生きてきた。高校を卒業しそこそこの大学に進学して、大手企業に就職する。社会のクライテリアを参考にしてそれから外れる勇気もなく、ただ平然と生きてきた。キルケゴールのいう倫理的実存として、模範的に自己の限界性と向き合い、一定程度絶望し、その怒りを美学的実存を冷笑することで発散してきた。またはそういう社会になんの疑念も抱かずにここまできてしまった。

 しかしここにきてYが脳裏をよぎる。社会の正解を目指して大空を自由に飛ぶために生えていた翼をもぎ取り、高校の4階から世界に飛んだYのことが忘れられないのである。

 それは真の意味で鎖に繋がれていない「自由」を目指す行為だったのかもしれない。少なくとも僕には羽をもぐ勇気も飛ぶ勇気もないけれど、そういう形があったことを僕の中では肯定したい。

今日はかの悪友がやけに眩しく映るのだ。

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